衝突事故後帰港したなだしおを見つめる遺族(写真:橋本 昇)
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(フォトグラファー:橋本 昇)

 私はよく横須賀から遊漁船に乗ってタイ釣りをした。揺れる舳先に座りぼんやりと竿先を見つめていると、波を搔き分けて進んで来る灰色の護衛艦が見えたものだ。護衛艦のたてる波に釣り船は思いのほか揺らされ、立っているのがやっとという状態だ。

 さらにタンカー、貨物船、潜水艦なども次々にやって来る。釣り船はその間隙を縫ってみずすましの様に右往左往する。この東京湾の浦賀水道は、海上交通の要所でもあったが、ひとつ間違うと衝突事故という超危険な海域でもあった。

 そして事故は起きた。1988年7月23日、横須賀港の3キロ沖で海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」が衝突したのだ。「第一富士丸」は沈没し、乗客・乗員48名のうち30名が犠牲となった。

海底から引き上げられた第一富士丸。船内から20名の遺体が発見された。引き上げは事故から4日目のことだった(写真:橋本 昇)
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不可解さが残った「なだしお」の行動

 その日、「第一富士丸」は午後2時15分に横浜港から新島に向けて出船した。一方の「なだしお」は伊豆大島沖での訓練を終えて横須賀基地に向かっていた。

 午後3時35分、「なだしお」が右前方に「第一富士丸」を確認、左前方にはヨットを確認してエンジンを停止したが進路変更は間に合わず衝突したという。そして午後3時38分の衝突からわずか2分で「第一富士丸」は沈没した。

 この大惨事の波紋は大きかった。「なだしお」の事故対応について厳しい非難の声が浴びせられた。「なだしお」は遭難信号を出しておらず、海上保安部への事故の第一報もかなり遅れた。