連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
江戸時代、男子独悦・手弄を「かく」掛ける、搔く「手業(てわざ)」といった。
素手で男陰を押さえている状を「握り」といい、「掬弄(きくろう)」とは男が「握り睾丸(きんたま)」することで、生気を保ち「保健の術」とされた。
薄馬鹿を「抜けている」というが、「抜き」とは仕掛け、詐術のこと。秘語で抜くとは気を抜くことであり、「抜ける」とは陰萎の自然離脱を指す。
また、男子手弄者の俗称異名を「ろうそく屋」といったが、ろうそく屋は職人が細い棒に溶かしたロウを塗りつけ、平手でしごきながら作る、そのありさまから出た俗語である。
僧侶の隠語で男女間または男男間の性行為を「天悦」。自慰を「大悦」という。
その意は、「天悦」の「天」の文字は「二+人」で構成され二人で悦ぶとなるが、「大悦」の「大」の字は「一+人」で構成され一人で悦ぶとなることによる。
仏教徒には、5つの戒めがあり、その第3が「不邪淫戒」。
それは男女間の淫らな行いを禁止する戒めであり、性欲に支配されることは、正しいものの見方を妨げる最も強大な煩悩であるとの考えからによる。
だが、「大悦」である自慰行為は「不邪淫戒」には該当せず。
禅僧・良寛の以下の歌が残されている。
「世の中に 交らぬとには あらねども “ひとり遊び”ぞ 我はまされる」
(自分は孤高な隠棲者ではないが、どちらかといえば詩や歌を愛唱するひとり遊びが好きだ)と訳されているのだが・・・。
(生身の女性との交合の恍惚は素晴らしいが、その過程や始末にはいろいろ煩わしさが伴う。また、仏教には「不邪淫戒」もある。だから私は独り自慰に耽ることで、その愉悦を楽しんでいる)という別の意があると指摘する研究者もいる。
井原西鶴の『好色一代女』には、「手のたかたか指(中指)を引きなびけ、“ひとりあそび”もむつかしく、まことなる恋を願ひし」と奥女中たちが自慰をする場面を(中指では快楽のツボにはなかなか届かず、本物の男根が恋しい)とある。
当時の「ひとり遊び」とは自慰の隠語である。
江戸時代は性に対して溶々たる文化が大きく飛躍し、性的な話談が笑いを誘発する。そうした話術は洒落やユーモアといった、一つの教養としてとらえられた。
手弄者・良寛が“ひとり遊び”という言葉を歌に巧みに忍ばせたところに、良寛の洒落と妙味が窺えるのではないか。