連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
戦国時代、戦場でいつ命を落とすかもしれないという生死の間に身を置く武将たちは、出陣の際に女性を伴うのは禁忌とされていたため、戦場で寵愛する「お小姓」といわれる年少の兵を抱えていた。
当時、男色は武将の嗜みであり、織田信長、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗などもお気に入りの少年兵を戦場に伴い情交していた。
そうしたことは、異常性愛ではなく武将の間では広く一般的な風習でもあった。
また、下級武士の子でも、殿様の目にとまれば小姓として側に仕えることで、出世街道をひた走るといった事例は多々見受けられた。
男色の気のない徳川家康は、美少年だった井伊直政にひと目で魅了されると、直政は家康から若くして譜代大名の中でも最大の所領を与えられ、子孫代々最大の石高を有し、大老も輩出。
代々、徳川家の重臣として仕え、明治維新以降は華族に列し伯爵家となる。
江戸時代の性風俗、陰間とは
江戸時代、男色は庶民の間に広まり、色道を究めるには女色だけでなく男色も嗜むべし、と粋人や文化人らによって「趣味人のたしなみ」とされた。
井原西鶴の『西鶴置土産』には「女郎がよいといふ野郎がよいといふ」という話がある。
それは女郎を買おうとした男が「地芝居子ども(春をひさぐ少年)」を品定めしているうちに、結局、男は少年と男色に走るという話で、女を買うのも男を買うのも同列という当時の風潮があらわれている。
本草学者、蘭学者、発明家、医者、戯作者、俳人など多彩な顔で知られる平賀源内も有名な男色家であった。
そのためか、生涯にわたって妻帯せず、若くて美しい歌舞伎役者らに入れ込んだ。
源内は男色手引き書『江戸男色細見 菊の園』『男色評判記 男色品定』をしたためるなど、源内のペンネーム「風来山人」は男色の隠語にもなるほど、彼は男色に血道を上げた。