連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

横浜に着岸した外国船の船員や商人たちは本牧を目指した。そのワケとは

 神奈川県横浜市中区南東部にある本牧は、北は山手、西は根岸に接し、東・南は東京湾に面し、古くから景勝地として知られていた。

 また、かつて日本で最初の海水浴場としても賑わいをみせていた。

 横浜居留地の外国人の行楽地でもあり、外国人たちは本牧海岸をミシシッピ・ベイと呼んで、その風光を愛した。

本牧を世界的に有名にしたチャブ屋

 本牧は、昭和の初め頃、日本に来る外国人に知らぬものはいないというほど、世界に知れ渡った所で、当時は美しい海岸に面しており、波打ち際には、洒落た洋風の建物が点在していた。

 外国船のマドロス(船乗り)たちは、押し並べて女に飢えているもので、いまにも爆発しそうな性的欲求不満に喘いでいる。

 開港間もない頃、横浜の港に着岸し上陸した水夫たちは、洋妾(ラシャメン)を買うのはまだマシな方で、町の娘を襲い、そこいらの野外で平気で交わる不届きな輩もいた。

 1864年に結ばれた「横浜居留地覚書」により、横浜の山手・根岸・本牧地区を結ぶ外国人専用の遊歩道が建設されると、その沿道に16軒の女性が応対した和洋酒の一杯売りをさせる茶屋がつくられた。

 それがバラックのホテルと称するものに発展、人々はこれをチャブ屋と呼んだ。

 チャブ屋は、1860年代から1930年代、日本に在住の外国人や外国船の船乗りを相手にした「あいまい宿(料理屋・茶屋・旅館などに見せかけて売春をする家)」の俗称である。

 外国船舶が横浜に多く停泊するようになると、山下町の前田橋付近を中心に外国の船員相手・商人相手の「あいまい宿」が現れた。

 大正時代に入ると、そうした風俗の店は山下町から横浜公園付近にかけて200軒が軒を連ねた。

 こうしたチャブ屋は横浜独自のものではなく、函館や神戸など他の港町にも存在した。

 チャブ屋の語源は諸説ある。