八瀬童子の装束、葱華輦、楽師の笙笛…
新宿御苑に到着した柩は葱華輦(そうかれん。神輿)に移され、古式に則って“八瀬童子(やせどうじ)”と呼ばれる人々の装束を身に付けた50名の皇宮護衛官によって担がれ、葬場殿まで静かに進む。
麦わらで覆った漆塗りの木靴が静かに砂利を踏み、その音が微かなざわめきとなって静まり返った弔問者の前を通ってゆく。先導するこれも古装束姿の楽師の笙笛が物悲しく空気を震わす。それはまるで古の絵巻物のような光景だ。
式が終わり、国内外の要人約9800人に見送られて、天皇の柩は八王子にある御陵に運ばる。雨が煙る甲州街道にも多くの人々が天皇を見送りに出ている。沿道から「天皇陛下万歳」という声も上がる。
昭和天皇の体調不良が発表されたのは前年の9月のことだった。最初は大量の吐血があったことが報じられた。
その日から天皇の容態の詳細は宮内庁を通じて毎日発表され、国民は天皇の容態に一喜一憂した。そして、“自粛ムード”が日本中に拡がって行った。
全国の神社の祭りは中止になり、クリスマス期間のジングルベルの音楽も年明けの「明けましておめでとう」の声も自主的にトーンダウンした。場末の酒場の酔い騒ぐ声も小さくなったと記憶している。
週刊誌も掲載記事の自粛を始めた。例えば、ヌードグラビアは誌面から消えた。
「いやぁ、うちはヌードとヤクザ物の記事で売っているのだけど、『天皇が病床におられる時に裸なんかけしからん』とクレームが来てね。本当に頭が痛かったよ」と、後日、ある週刊誌の編集者が述懐していた。
また、イルカの追い込み漁の記事が「血のような死を連想させるものはNG」という理由で掲載見送りになったカメラマンもいた。