
1995年3月20日、都内の異なる5本の路線の走行中の電車の中で、サリン入りのビニール袋を午前8時という同じタイミングで、5人の異なる犯人が一斉に傘で袋を突き破ってサリンを散布させた。14人が亡くなり、5000人を超える被害者が出た。
事件当時、地下鉄のホームを中心に除染活動にあたったのは自衛隊だった。その日の除染活動はどんな状況だったのか。『「地下鉄サリン事件」自衛隊戦記 出動部隊指揮官の極秘メモ』(潮書房光人新社)を上梓した、事件当時除染活動を担った32連隊の隊長を務めた福山隆氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)
──地下鉄サリン事件とはどのような事件だったのか、福山さんのお考えを教えてください。
福山隆氏(以下、福山):事件が発生する3月20日の2日後(22日)に、山梨県上九一色村(当時)の教団本部に警察がガサ入れする予定でした。それを妨害するために、警視庁・警察庁がある霞が関周辺で、未曽有の事件を起こして捜査を混乱させようと目論んだオウム真理教が起こした事件です。
オウムの中には一流大学を出た頭脳派の信者たちがいましたから、タイミングと場所を計算し、一人ひとりの役割分担を決め、自家製の化学兵器を散布し、それぞれ逃走するように指示したのです。
地下という閉塞された空間でこうした行為に及べば効果は強く、衝撃的な結果になることは間違いありません。電車が霞ヶ関に近づくタイミングで大騒ぎになるというシナリオでオウムは準備をしていました。
──事件当日の福山さんの1日について教えてください。
福山:その日は休日でした。自衛隊では春と秋に年に2回の転勤(人事異動)があります。その前日だったので、私は連隊長などと送別ゴルフに出ていました。
ナインホールを回り、ゴルフ場のフロントに戻ったら部下の舘島軍曹宛に「大至急、連帯本部に連絡されたし」というメモ書きがあった。天の啓示を受けたような気がして、私はその場にあった公衆電話から本部に連絡しました。
電話先の隊員は「地下で何かあったようですが、うちの連隊が関わるような話ではないと思うので、隊長はゴルフを楽しんでください」と言いました。了解して電話を切ったものの、「これは行くべきだ」と直後に決断して、同行していた同僚と共に泥だらけのゴルフウェアのまま本部へ向かいました。
同年1月に阪神淡路大震災があり、自衛隊は「中部方面隊が出遅れた」と批判を受けていました。何かある可能性がある場合は、フライングしても出動しようと私は決めていたのです。
私は自衛隊でインテリジェンス(スパイ情報調査)をやっていましたから、本部に向かう車の中でラジオを聞きながら情報を整理しました。最初、皇室に対するテロではないかと推測しました。どの方向から風が吹いても高濃度のサリンが皇居に向かうように仕掛けられたという印象を持ちました。
時の政権は「災害派遣」という奇妙奇天烈な命令を下し、出動までに少し間があったのですが、命令が私の連隊に届いた20分後には本部に到着できました。私の連隊と化学科部隊にだけ出動命令が出ていました。