毛沢東が、党内の権力闘争として始め、後に毛沢東の晩年の誤りと総括された文革は、1976年、毛沢東の死によってようやく終わった。

民主化を求める学生たちの希望だった胡耀邦

 翌年、中国共産党は文革の終結を宣言し、復活した鄧小平らは改革開放路線へと大きく方針を転換する。まさに中国近代化路線の始まりだった。それから天安門事件が起こるまでのまでの約10年間、中国は駈け足で発展した時代だった。

 鄧小平の改革開放路線を任された胡耀邦総書記はその温かい人柄で人気を集めた。日本とも心からの友好関係を築き経済の発展を推進した。胡耀邦はまた、経済発展につきものの官僚の腐敗、汚職に対しては三権分立などの政治改革が必要だとまで踏み込んだ。チベット人への弾圧にも心を痛め謝罪までしたという人権派の指導者だった。

 折しも中国では学生を中心として民主化を求める運動が活発になっていたが、胡耀邦は学生運動にも同情的で対話を重視していた。

 だが、そんな人柄が党の指導者にはふさわしくないと糾弾され、1987年1月、胡耀邦は総書記を辞任する。失脚だった。そこでにわかに大きくなったのが学生たちの声だった。

 民主化を求める声は日に日に高まり、2年後、胡耀邦の死をきっかけについに天安門広場で爆発したのだ。いつの時代もどこの国でも保守派の長老たちというのは体制が崩れることを最も恐れるものだ。

 天安門事件で学生に軍隊を向けたのも、長老といわれる鄧小平たちだ。軍隊を使ってまで守ったのは共産主義という体制だった。