(フォトグラファー:橋本 昇)
1989年6月4日、とうとう北京で暴虐が起こった。
あくる日、ニューズウイーク本社から電話があった。
「北京が弾けた。学生たちがいっぱい死んでいる! 直ぐに行ってくれ!」
私は言い返した。
「北京にはもうチャーリーがいるだろう!」
「いや、チャーリーはヤバイ写真を撮り過ぎて、当局から睨まれた。北京を脱出する。君は日本人だから目立たないだろう」
北京行きは了承したが、面白くなかった。いわゆる天安門事件がはじまった頃からずっと「行かせてくれ!」とニューヨークの写真デスクに懇願していたのに聞き入られなかったのだ。それなのに今さら行けとは・・・。例えは悪いが、同僚が腹一杯に食べ尽くした後の残飯処理みたいなものだろう。そんな思いが頭をかすめもしたが、すぐに出発の準備に取りかかった。
「鄧小平は悪党、李鵬の目つきは殺人者の眼だ」
北京への直行便は欠航していた。香港経由で広州に入り、国内線を捕まえて北京へ入ることにした。
香港は天安門事件の話題で持ちきりだった。街の食堂でテーブルを囲んだ客たちが忙しく箸を動かしながらも、天安門のことを話している。
「あんた、これから北京へ行くの?」「ひえー! あんな恐ろしい所に・・・」
びっくりするほど長い付けまつげを激しく動かしながら、中年女性が素頓狂な声を上げた。