最澄の運命を翻弄した、一つの密教経典がある。今回は、その経典にまつわる最澄と空海の背景に迫る。
平安時代、空海は真言宗を高野山に、最澄は天台宗を比叡山に開創した。
2人は延暦23年(804年)、同時期に遣唐使節に随う留学生として海を渡った。同じ船ではなかったため、2人が出会うのは5年後となる。
当時、最澄は仏教界の若きリーダーで、国費で通訳を連れ、1年で還って来られる還学生(げんがくしょう)という立場にあった。
対して空海は私費で密教を究めようとする学問僧で20年の滞在期間が義務づけられていた。
最澄は東シナ海に面する台州で、天台を習得した後、帰国の1か月前、順暁という僧侶から密教を教わった。
天台を目指した最澄が密教を学んだ理由は、桓武天皇の求めに応じたからともいわれている。
当時の権力者らが仏教や陰陽道に呪術による現世利益を求めた背景は、権力闘争の裏側に蔓延る呪詛、怨霊、祟りから身を守りたいという願望による。
仏教を開いた釈迦は人間の世界は苦しみの世界であり、その苦の原因は愛欲である。そう悟った釈迦は愛欲の心を断ち涅槃(ねはん)に入った。
最澄の最終目標は仏陀になることだった。仏陀とは悟りを開いた人を指す。
だが、膨大な知識を修めても、たくさん徳を積んでも、悟りの境地は得られるものではない。最澄が目指したのは、釈迦が体験した心の境地だったのかもしれない。