父の遺産で豪遊する放蕩息子を描いた、ジェラール・ファン・ホントホルストによる「放蕩息子の帰還」(ドイツ国立美術館・アルテピナコテーク蔵)

 組織や社会の中で常に競争に身をさらされていると、人は誰しも「自分の努力は報われたい」と望むものである。

 だが、現実は必ずしもそうなるとは限らない。

 私たちは評価され、分類され、分析されることで緊張やストレスにさらされ、落胆や嫉妬、怒りと孤独といった否定的な感情に苛まれることもある。

 福音書には「貧しい人々は幸いである。飢えている人々は幸いである。泣いている人々は幸いである(ルカ6・20-21)」とある。

 たとえ貧しい生活をしていたとしても、周りに温かな共感が漂っていれば、心は晴れやかな明るい気持ちになるということなのだろう。

 人に他への優しい気持ちと思いやりがあれば、隠された小さな嬉しみを見出し、明るく楽しく過ごすことはそう難しいことではない。

 慈愛に満ちた心と他を利する行いを仏教では「慈悲」という。

「慈悲」の「慈」は慈しむ心で幸福を与え、「悲」は憐れむ心で不幸を抜き去る。その心情は、「共に悩み」「同情」するものである。

 人間は感情的な生き物で、誰しも多かれ少なかれ人を友と敵とに区分しがちだ。

 友に対しては心の痛みを分かち合い同情を感じるものだが、敵に対してはそれを感じにくい。

「慈悲」と「憐れみ」について綴られた西洋の説話で、聖書に登場する最もよく知られているものに「放蕩息子の帰還」がある。

 それは自由を求め欲望のままに生きる放蕩息子の顛末と、責任感のある善良な兄、息子たちに無条件の愛情を注ぐ父親の話である。