弘法大師空海が説いた大欲(たいよく)とは何か

「煩悩」とは、私たちを「煩」わせ「悩」ませるものだが、和鐘・梵鐘の「梵」とは、悩みや迷いを断ち切り、心を安寧に導く効果があり、また悟りに誘う功徳があるとされる。

 大晦日に除夜の鐘を108回撞くのは、人の「煩悩」が108あることに由来する。

 欲は煩悩の源であり、欲っする心。

 不足したものや不満を満たしたいという気持で、それは人間の深いところに根差す、誰しもが生まれながらにもっている本能である。

 人は、欲を満たすために活動する。

 それは生理的なことに始まり、社会的、利他的な高次な領域まで進化し、それが意思となり行動となる。

 健康、教養、趣味、勉学、財産、名誉、そして感動、やすらぎなど、すべては欲があることで得ることができる。

 欲望は、生きる力の源泉で、人は起きてから寝るまで、その影響を生涯、受け続けながら生活している。

 現代は物欲熾盛(しせい)の世の中で、唯物主義の考え方・世界観が人々の心の土台となっている。

 そのため肉体の中に自我があるという観念がそこに胚胎して中心となり、利己心、享楽心、射幸心、功利心、名誉心となり、さらに他我との対立において猜疑心、嫉妬心、怨恨心、闘争心などが隠顕することで人心の不安が醸し出されてくる。

 釈迦は人間の心が「貪欲(とんよく)の火によって、瞋恚(しんい)の火によって、愚痴(ぐち)の火によって燃えている」と云った。

 貪欲とは貪りを、瞋恚は怒りを、愚痴は無知を意味し、これらは三毒と称され、慢心、疑惑、邪見といった妄見の発露となる。

 貪りの対象は金銭や身のまわりの物質的なものだけでなく、愛欲、名誉、権力、自己保身など眼に見えない要素も含まれ、そうしたものに執着することで迷いが生じる。

 それらは人の「煩らい」や「悩み」の根本となり、己が欲したものを得たとしても、その満足は長くは続くことはない。

 次々と貪り求める人間の渇望、それは限りないのだ。