古今東西、宗教といえば祈りが伴う。祈りとは祈る人の願いを叶えるため、人智を超えた存在にお願いをする行為。その根幹にあるのは、人が抱く夢であり、希望である。
密教では祈る行為を加持と称する。
『広辞苑』によれば、加持とは仏陀が迷いの世界の衆生を加護保持すること。密教などで、病気平癒、災難を除くため、仏陀の加護保持を祈祷する秘法、とある。
神仏の不可思議な力によって衆生を守ることを指し「神力」「威神」と漢訳される。
加持の「加」は増加添加、「持」は受持任持の意味がある。
この相反する2つの立場の双方が補い合うことで一つに融合し、加持祈祷が成立する。
それは、神秘の力である不可思議な威力を放つ側と、それを受ける側の構図がみてとれる。つまり、加わるのは持する作用に応じるからであり、持する作用は加わるのを感じるから生じる。
すなわち加持する働きは感応に修まることで、不可思議な結果が顕われるのである。
妙有とは何か
加持感応がすべての森羅万象の原理でもある、と密教は明示する。
それは釈尊の、万象すべて因縁所生にして従って無常であり無我という「諸行無常」「諸法無我」に一致する。
つまり、世界は常に変化しながらも、すべてのものごとは、つながり合い独立しているものは一つもないということであり、それは、この世に生じる万象各々が本来備えている真理とされる。
仏教で「真空(しんくう)」とは、一切の迷いによって見られる相を離れている涅槃の状態を指す。
自性もなく、他と区別された個人としての自我である個我もなく、この世に存在する有形・無形の一切のものは、皆、空という意である。
そうした状態は物質にもあてはまる。
例えば水は四角、三角、円の器に注がれるといずれの形にもなる。それは形有るものを超えた存在であり空といえる。
だが、形を超えてはいても、水は一定の形ではなく器に従いながらも、水として厳然と存在している。