最終ページにこれまでの連載一覧があります。
私はプロの行者としての道を歩んで30年経過した50歳前半の時、密教史始まって以来の荒行となる秘法、百万枚護摩供という百万枚の不動護摩法に挑んだ。
前回(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61634)に続き、その軌跡をお送りする。
黎明のしじまが心中に浮かび上がる雑念を取り払ってくれる。100日の一日一日の中の行の9時間、9時間の中の1時間・・・。
私は大きな流れの中にあるリズムをほぼ捉え得たと確信することができた。
遠くへ行くものはゆっくり行く。ただただ無心に1本、また、1本と護摩木を投げ入れていく中で、平常・・・つまり、自然の呼吸をすることが一番楽なのだ。
完璧なリズムで護摩木を投げ入れ続けた。不思議なことに投げ入れているという意識はなく、手が自然に動いて護摩木が自然に離れていく。
真言も唱えるという意識が全くないまま、呼吸のように自然な感じで口から出た。
「自分は今、仏さまのリズムと完全に一体になっている」。頭の片隅のそこだけ醒めた部分でこう考えたのを覚えている。
この我欲から解放されたならば
護摩を焚いていると、つくづく護摩の火は人間の我欲ではないかと思えてくる。
この我欲から解放されたならば、どれほど楽なものだろう。欲望は、心のなせる業だが、その心が自由にならないのが人間であり、欲望から解き放たれることもない。
護摩の炎をさらに勢いよく燃やし続けることによって、欲望の虜(とりこ)になった自分を責め立て、やがて欲望の苦しさを知るのである。
この世が極楽である、という真言密教の根本は、こういう時に救いとなる。
欲望を捨てるよりも、求めよと・・・。求めて、求めて、求め切れないだけ求めたならば、それを人に与えよ、と。
そうしている間に、自らの思わぬ力を発見するのである。