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死を迎える直前、人は何を思うだろう。業より生じた結果への後悔、もしくは懺悔。それとも生かされた時間と万物への感謝か…。
私はこれまで、密教の荒行である八千枚護摩供で過去、2度、死線を彷徨った。最初は、20代後半、4回目の八千枚護摩供に挑んだ夏の時。2度目は平成25年春のことである。
最初の時は、いわゆる若さゆえの経験不足によるものだが、2度目は100回を迎える77歳、練熟の時期でのことだった。
この時は八千枚護摩供の直前まで数か月の間、図らずも心騒がしい状況に置かれて心身ともに不調にあったのが、その原因の一つであった。
何とか行法が終わり、庫裡に戻った途端、私は意識を失った。
私の血圧は30~50mmHg、血中酸素濃度が30%台まで下がり、ほぼ瀕死の状態に陥った。幸い、かかりつけの医師の処置により一命はとりとめた。
人は死を実感することで感受性が強まる、と私は感じている。
例えば、いままで日常生活の中では聞き逃していた鳥のさえずりや川のせせらぎなどが、心に浸透するように響いたり、路傍に咲く花や肺に新鮮な空気が流れ込むといった、普段、意識しないことに感謝の念があふれるように生じてきたり・・・。
これまで目にしてきたものの見え方が変わったり、生きていることが当たり前のことではなく、その奇跡のような幸運と悦びに、心が歓喜に包まれるような気持ちになったりする。
こうしたことは死を強く意識したことで、より深く実感できるようになるのではないだろうか。
鬼籍に入れば意識は消滅し、暗闇の虚空となると考える人もいるだろう。だが、果たしてそうだろうか。