聖徳太子は『法華経』を根本経典としていた。その中に「一乗」という教えがある。

「一乗」は釈迦が最後に説いた教えといわれる。

 聖徳太子によって著された『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)には、中国仏教の解釈と異なる、わが国特有の太子自身の見解が示されているという。

最澄の密教

 桓武天皇は晩年、自身の病気が、自ら死に追いやった弟の早良(さわら)皇太子の怨霊による祟りと感じ、その恐怖に苛まれていた。

空海のライバル、伝教大師最澄は日本仏教の立役者

 最澄が帰国すると、後ろ盾である桓武天皇は重い病の床にいた。

 天皇は最澄の霊力で、自らの病気を治し、また、怨霊を鎮めることを期待した。

 病み衰えていた天皇が必要としたのは最澄が追究した天台の教えではなく、得意ではない密教の呪術であった。

 最澄は延暦24年(805年)、日本最初の密教教化霊場である能福護国密寺を創建。宮中では天皇の病気平癒を祈り続けた。

 また、天皇の要請により高雄山神護寺にて、最澄は日本最初の公式な灌頂(種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式)を行う。

 桓武天皇は「今、最澄阿闍梨は溟波を渉りて無畏の胎訓を受け」と、初めて密教を我が国にもたらしたと、その業績を讃えた。

「無畏の胎訓」とは、密教経典『大毘遮那経(大日経)』を漢訳した唐の密教僧、善無畏のことを指す。