だが、最澄の密教は二義的な雑密(地方密教)で、空海が唐の長安にある密教の総本山で正統なる継承者、恵果阿闍梨から相承した正統密教とは異なるものだった。

 最澄が習ったばかりの密教の修法では、「天皇の病気を治したい」という願いもむなしく桓武天皇は亡くなった。

 天台仏教とは中国が隋の時代に流行した仏教で、当時、奈良を拠点とした南都仏教の僧侶からみれば、時代遅れの仏教を最澄が天皇の力を借りて、日本仏教の中心に据えたと思われていた。

 しかし、最澄の開いた天台宗は法華円教、真言密教、達磨禅法、大乗菩薩戒の四宗融合した日本独自の天台宗だった。

奈良仏教の南都六宗には声聞、縁覚、菩薩の3つの乗り物があり、菩薩の乗り物だけが成仏できるという「三乗説」の考え方がある。

 それに対し、最澄の天台宗の教理である「一乗説」は、人は仏の教えによって、すべての人々、誰しもが平等に救われ、また成仏できるという思想で、「法華経」の教えと精神を体現しようとするものだった。

 桓武天皇の死後、最澄は逆風にさらされながら10年間、3つのことに専念した。

 一つは密教を学び直すこと、もう一つは天台の教理を深めること。そして日本各地に天台宗の教勢を拡大させることである。

 しかし、天台宗の教勢を拡大させるために、最澄は密教の必要性を強く感じていた。