長浜城から山崎城へ?

 天正元年(1573)、秀吉は越前朝倉氏攻めと近江浅井氏攻めに参戦し、両氏が滅亡すると、これまでの功績を賞され、小谷城(滋賀県長浜市)および、浅井氏旧領の北近江三郡(伊香、東浅井、坂田)を、信長から与えられている。

 秀吉ははじめ小谷城を居城としたが、天正3年(1575)夏に、長浜城(長浜市)が完成すると入城し、城主となった。

 この頃、寧々も長浜に移り住んだとみられている。

 しかし、秀吉は転戦が続き、長浜に留まっていられる状況ではなかった。

 天正5年(1577)には、信長から中国地方攻略の司令官という大役に抜擢され、播磨国へ出陣している。

 天正8年(1580)、秀吉は播磨国・但馬国の平定を果たし、播磨姫路城(兵庫県姫路市)を居城に定めたが(柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』)、寧々は姫路城には移らず、長浜に残ったようだ(呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』)。

 そのため、天正10年(1582)6月2日、要潤が演じる明智光秀の軍勢に強襲された信長が自刃に追い込まれると(本能寺の変)、長浜城は明智方の山本山城(滋賀県長浜市)の城主・阿閉貞征(あつじさだゆき)らに攻められ、寧々は美濃国揖斐郡広瀬北村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)に逃れたという(福田千鶴『人物叢書 高台院』)。

 同年6月13日、秀吉ら織田軍は「山崎の戦い」で明智光秀を討ち、6月27日には信長亡き後の天下人織田家の家督問題や所領配分などが、宿老たちの間で話し合われた(清須会議)。

 長浜城には山口馬木也が演じる柴田勝家の甥・柴田勝豊が在城することとなり、秀吉は山崎城(京都府乙訓郡大山崎町)を築き、本拠とした。

 寧々も、おそらく山崎城に移ったと考えられている。