豊臣秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長)(京都・大光院所蔵)
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2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主役は「天下人の弟」羽柴秀長(豊臣秀長)。その実像は、史料の読解次第で大きく揺れている。大河ドラマの時代考証者が秀長の出生と家族関係、百姓身分から織田信長直臣へと至る過程を丹念にたどり、秀吉政権の「もう一人の主役」がいかにして歴史の表舞台に現れたのかを検証する。(JBpress編集部)

(黒田基樹、歴史学者)

※本稿は『羽柴秀長の生涯:秀吉を支えた「補佐役」の実像』(黒田基樹著、平凡社)より一部抜粋・再編集したものです。

※文中において、以下の史料集については、略号で示しています。(00は文書番号)
『羽柴秀長文書集』所収文書番号:秀長00
『豊臣秀吉文書集』所収文書番号:秀吉00

秀長と秀吉は同父兄弟か異父兄弟か?

 秀長は天文9年(1540)に、尾張愛知郡中々村(名古屋市中村区)で生まれたとみられる。

 兄秀吉(1537~98)からは、3歳年少であった。もっとも秀長の生年については、江戸時代からそのように伝えられていたものの、根拠は明確ではなかった。

 江戸時代末期成立の『系図纂要』所収「豊臣系図」に、「天文九年三月二日生まれ」と記されていて、これが通説の根拠になっていたと思われるが、同史料の典拠は確認されていない。

 その一方で、『多聞院日記』(増補続史料大成)には、死去した天正19年(1591)の時の年齢を「五十一才」と記していて、これだと生年は1年下って、天文10年になる。

 ただ近時、死去前年の天正18年10月に秀長が泰山府君祭に捧げて作成した都状(同祭に捧げる祭文のこと)に、自書で「秀長五十一」とあることが確認され、これによって生年は天文9年と確定されることになった。

「羽柴秀長都状」。「秀長五十一」の文字が確認できる。(奈良国立博物館所蔵、画像:Colbase)https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/1349-0?locale=ja

 母は天瑞院殿(1517~92、のちに大政所(おおまんどころ)。一般に本名は「なか」とされているが、これは江戸時代の創作)で、秀吉の同母弟であることは確実である。

 問題は父である。

 通説では、秀吉の父は「木下」弥右衛門、秀長の父は筑阿弥(竹阿弥)とされ、両者は異父兄弟とみられている。

 しかしその根拠は、江戸時代中期成立の「太閤素生記」(『改定史籍集覧第一三冊』所収)であり、それよりも時期が早い、江戸時代前期成立の小瀬甫庵『太閤記』(新日本古典文学大系)・「祖父物語」(前掲『改定史籍集覧』所収)では、秀吉の父は「筑阿弥入道」とされ、そのため秀吉と秀長は同父兄弟とされていて、異なっている。他に有力な徴証がないので事実の確定は難しい。

 しかし所伝は同父兄弟とするほうが早い時期にみられていて、「太閤素生記」は弥右衛門の死後に、天瑞院殿は筑阿弥と再婚したと記しているが、弥右衛門の死去は秀長・朝日(1543~90、南明院殿。「旭」とも。副田吉成妻・徳川家康妻)の誕生後であること、そのため筑阿弥は弥右衛門の出家名で両者を同一人物とみることも可能である。

 これらから弥右衛門と筑阿弥を同一人物とみて、秀長は秀吉と同父母兄弟とみておくことにする(拙著『羽柴秀吉とその一族』)。