秀長のきょうだいには、6歳年長の姉瑞竜院殿(1532~1625、天文元年生まれ、三好常閑妻。一般に本名は「とも」とされているが、これは江戸時代の創作)、3歳年長の兄秀吉(天文6年生まれ)、3歳年少の妹朝日(天文12年生まれ)があった。
父妙雲院殿(弥右衛門・筑阿弥)は、朝日が生まれた天文12年に死去している。その時、秀吉は7歳、秀長は4歳にすぎなかった。
なお秀長の幼名について、「小竹」とされることがあるが、これは「筑阿弥」の子であることによる渾名であることが明らかで(尊経閣文庫本「太閤素生記」)、兄秀吉もそのように称されていたから、秀長の幼名ではない。
父の社会的立場も判明しないが、代々にわたって清須織田家に武家奉公していたというから(『太閤記』)、中々村に居住する上層百姓で、清須織田家に仕えた在村被官であったと推定される。
そのためそれなりの耕地を所有していたことだろう。
しかし子どもが年少時に父が死去したことで、百姓家としての経営は成り立たない状態になり、耕地は村の有力者や親類に預けられたことだろう。
そのため秀吉一家は、他の百姓家に奉公するようになったとみられ、なかでも秀吉は10歳の時(天文15年のことか)に村を出て諸所で奉公するようになったとみなされる(前掲拙著)。
秀長の兄・豊臣秀吉(狩野光信画、画像:Public domain,Wikimedia)
秀吉は、遠江・三河・尾張・美濃四か国を廻って奉公していたといい、永禄元年(1558)、22歳の時に、尾張清須に戻ってきて、その時に清須城主になっていた織田信長(1534~82)に、小者ものとして仕えたとみなされる(『太閤記』『明智軍記』〈新人物往来社〉)。
その時に秀長は19歳になっている。この年齢であれば、秀長はすでに元服していたことだろう。仮名(元服後に称す通称)は、この時から「小一郎」であった可能性はあろう。
そうであれば父が所有していた耕地についても、一部は戻されて、百姓家として自立するようになっていたことだろう。
父は清須織田家の在村被官として存在していたというから、苗字を称していたであろう。しかしその死去で百姓家として没落したため、秀吉も秀長も苗字を称することはできなくなっていたと考えられる。
苗字を称することができるかどうかは、村での身分に規定されていた。この時に秀長が所有した耕地は、それほどの規模ではなかったであろうから、まだ苗字を称することができるほどではなかったと思われる。
村の有力者や親類の支援をうけながら、百姓家として存立を目指していた、という状態であったと思われる。
ちなみに村に対しては、領主から戦争時に軍役を賦課されることがあり、その場合に村では、経営規模の小さな百姓家当主を、「足軽」として差し出していた。
もしかしたら秀長も、その役割を負わされていたかもしれない。