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(本郷和人:東京大学史料編纂所教授)

「托卵」とは自分の卵を他の鳥の巣に産みつけて育てさせる鳥に見られる習性である。人間社会においても自分の子と信じて育てていたのに、他の男性の子であったこと、つまり生物学的父と社会的父が異なることを「托卵」と呼ぶ。「托卵」によって歴史を動かした「家」の継続と繁栄の秘密に、歴史学者・本郷和人氏が迫った。

※この記事は、『秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか~「家」と托卵でひもとく日本史~』(本郷和人著、徳間書店)から一部抜粋しました。

名門の血筋を重んじた豊臣秀吉

 武家社会では、家は単なる血縁ではなく、地位や財産、名誉を含めた総合的な「権利の集合体」として機能していました。家を存続させるためには、時に養子を迎えたり、婚姻関係を利用したりして、柔軟に血統を維持することが求められたのです。

 特に戦国時代から江戸時代にかけて、その戦略はますます洗練されていきます。武家の養子制度などは、その典型例の一つです。本来なら血のつながりのある男子が家督を継ぐのが理想でしたが、そうはいかない場合も多い。だからこそ、有力な家柄と縁を結ぶための養子縁組が盛んに行われました。

 武家社会では「家」が絶えないようにするため、「名跡を継ぐ」という手法が取られました。血縁が断絶したとしても、家名を継ぐ者がいれば、その家の伝統や権威は維持されるわけです。血のつながりが切れたとしても、家名を守るために、時には無理やりにでも跡継ぎをつくることもあった。

 つまり、日本の家制度は、純粋な血統主義ではなく、家という枠組みを維持することに重きが置かれていたのです。現代の視点から見ると、「家のためにそこまでする必要あるの?」と思うかもしれませんが、当時の人々にとっては、当たり前のこととして受け入れられていました。

 名門の血筋を引くことが権威の源となり、その家を繁栄させる。その考え方は、時代を超えて受け継がれていきます。その最たる例が、豊臣秀吉と豊臣秀頼でしょう。

 秀吉が、非常に多くの女性と関係を持っていたことは、よく知られた事実です。しかし、不思議なことに、彼はどの女性との間にも子をなすことはありませんでした。それなのに、淀殿だけは二度も男児を出産している。これはいったいどういうことなのか?

 この不可解な出来事について、歴史研究者がどれだけ考えても答えは出ません。そこで、私は産婦人科の先生方に、

「数多くの女性たちと関係を持ったのに一人も子どもを持てなかった秀吉が、たった一人の特定の女性との間でだけ二人の子どもをつくった。そんなことはあり得るのでしょうか」

 と、この問題について聞いてみたのです。すると、皆さん揃って、

「それは、秀吉に子種がなかったと考えるのが自然ですね。普通に考えれば、秀頼は秀吉の子ではないでしょう」

 とおっしゃいました。

 現代でも、不妊の男性は決して珍しくありません。秀吉も、おそらくそうだったのではないか。そう先生方は指摘したのです。

 でも、仮に秀吉と淀殿の相性がすばらしく、淀殿との間にだけ子どもができた可能性はあるのか? これについても先生方に尋ねてみました。すると、

「子どもが二人、でしょう。それは天文学的な確率でしかありえません」とのこと。つまり、どう考えても、秀頼は秀吉の実子ではない可能性が高いわけです。

 では、淀殿はいったい誰との間に子をなしたのか。それを詮索するのは無粋ですし、正直なところ、現時点で真相を究明する方法はありません。

 ただ、重要なのは、当時の武家社会では「名門の血筋を受け継ぐこと」が何よりも重んじられていたことです。その点でいえば、「淀殿が生んだ子である」という事実は、非常に大切なことでした。

 淀殿は、近江の戦国大名である浅井(あざい)長政と織田信長の妹・市の方との間に生まれた女性です。織田家の血筋のお姫様が生んだ子どもなのですから、仮に秀頼が秀吉の実子ではなかったとしても、跡継ぎとして考えれば、それほど問題にはならなかった。こう考えると、当時の家制度がいかに柔軟であったかが見えてくるのではないでしょうか。