(歴史ライター:西股 総生)
天守は昭和10年に復興
伊賀上野城を築いたのは、藤堂高虎である。近江に生まれた高虎は、織田信長・豊臣秀吉に仕えて大名に取り立てられた。しかし、秀吉の死後は早々に豊臣家を見限って徳川家康に接近し、信頼を得て名古屋城・篠山城・江戸城などの築城に携わっている。
家康が征夷大将軍に任じられてから3年後の1608年(慶長13)、それまで伊予今治を領していた高虎は、22万石をもって伊勢中部・伊賀に封じられた。そして、伊勢の平野部に津城を築いて居城とする一方、伊賀には上野城を築いた。
高虎がこの地に入部したこと自体、大坂の豊臣秀頼に対する徳川方の戦略配置の一環である。上野城も当然、大坂に対する前衛基地という位置づけであった。
そんな伊賀上野城は、上野盆地の中ほどにある丘陵に築かれた平山城だ。現在、本丸に建つ天守は本来のものではない。高虎が建てた五重の天守は、慶長17年(1612)の暴風で倒壊してしまい、以後再建されることはなかった。しかし、昭和10年(1935)に地元の資産家だった川崎克氏が私財を投じて木造で三重天守を復興した。
高虎の天守が五重だったのに対し、復興三重天守は三重だからサイズが全く異なり、天守台が大きく余ってしまっている。とはいえ、伊賀焼の作陶家でもあった川崎克氏はすぐれた美的センスの持ち主だったらしく、この復興天守はなかなか美しい。はっきりいって、高度経済成長期以降に続々復興されたコンクリ天守や、最近流行りのCG再現天守なんかより、よっぽど“お城”らしい。
けれども、天守以上にこの城を有名にしているのは石垣だ。本丸西面の石垣は約30メートル(水面上28メートル)と、日本でも屈指の高さを誇っているのである。
それゆえ伊賀上野城は、三重県を代表する名城とされ、全国の城を紹介する本などでも必ず名城に列せられている … のではあるが、この城を本当に「名城」と評してよいものか、筆者は大いに疑問を感じるのだ。
「名城」という言葉の定義にもよるのだけれど、「難攻不落性なすぐれた城、造りのよい城」という意味に解するのなら、伊賀上野城は名城とは評価しがたい。なぜかというと、例の本丸西面の石垣はたしかにすごいのだけれど、でも、それだけなのである。
同じ本丸でも、南面の石垣は並みの高さしかないし、東面から北面にかけては空堀と切岸だけで、石垣すら積んでいない。しかも、本丸を囲む二ノ丸は、だだっ広いだけの土塁造りで、縄張にも芸がない(二ノ丸は現在は市街地化で消失)。
ではなぜ、本丸西面だけ一点豪華主義のように高石垣を積んでいるのか? これを、大坂方面に誇示するためだという人がいるが、実際はもっと単純な理由である。この城の本丸が、丘陵の先端部に位置しているからだ。30メートルの高低差がある丘陵の縁に石垣を積んだら、この高さになりました、というだけの話である。
もちろん、この高さを一発で積み上げるには技術を要するから、石垣ができたとき高虎はドヤ顔をしただろう。でも、それ以外では手を抜いているのだ。本丸の天守の裏手には大量の礫が山積みになっているが、石垣の裏込めに使う予定で集積したものらしい。
本当は本丸の全面を石垣で固める予定だったが、途中で工事をやめてしまったようだ。倒壊した天守を再建しなかった件を含め、大坂の陣が起きる数年前に何らかの計画変更があった、と考えざるをえない。そもそも、大坂から東に通じるルートとしては東海道筋や中山道筋がメインである。伊賀越えはサブルートでしかないから、戦略的にはさほどの堅城を必要としなかったのかもしれない。
藤堂高虎のネームバリューと高石垣ゆえに、本来の実力以上に「名城」の肩書きを背負わされているのだとしたら…ちょっと気の毒な感じもする。そんな伊賀上野城の素顔に気付いてあげたって、いいじゃないか。