春日山城にある上杉謙信像 写真/フォトライブラリー

(歴史家:乃至政彦)

上杉謙信の「虫気」

 上杉謙信は享禄3年(1530)1月21日生まれである。亡くなったのは、天正6年(1578)3月13日である。

 生没年月日が明確に伝わっている戦国大名は意外に希少で、しかも謙信の場合、その死因まで明記されている。

 謙信の死因は「虫気」である。

 これは、一次史料の上杉景勝書状にはっきりと記されている。ただし、その解釈は微妙である。

 通説は、謙信が「脳卒中」で亡くなったとしており、その根拠をこの景勝書状にある「虫気」としている。私はここに異論がある。

 景勝は同時期にほぼ同じ内容の書状を、複数の人物に書き送っている。

 そのひとつを次に示そう(『上杉家文書』六七二号文書)。

態用一書候、爰元之儀可(「無」欠)心元候、去十三日、謙信不慮之虫気不被執直遠行、力落令察候、因茲遺言之由而、実城へ可移之由、各強而理候、任其意候然而、信・関諸境無異儀候、可心易候、扨亦、吾分事、謙信在世中別而懇意、不可有忘失候、肝要候、当代取分可如意之条、其心得尤に候、猶喜四郎(=吉江信景)可申候、穴賢々々、

「追啓、謙信為遺言刀一腰次吉作秘蔵尤候、以上、」
         三月廿四日     景勝〈花押〉
         小島六郎左衛門(=職鎮)とのへ

 ここで景勝は、「さる13日に謙信が不慮の虫気から回復されず、遠行されました」とその死因を虫気であることを述べている。そして、人々が景勝に謙信の「遺言」がある通り「実城」に入るよう強く主張したため、彼らの意思に従ったことを述べている。最後に追伸として、謙信の「遺言」であなたに「次吉作」の刀をひとつ贈るので、大事にしてくださいと述べている。

 現在の通説は、ここにある「虫気」を「脳卒中」と解釈するが、その場合、この書状は景勝の信頼を無くすものとなってしまうのではないだろうか。