大坂冬の陣の和議前日に、片桐且元が「近く成立する」と状況を記した書状大坂冬の陣の和議前日に、片桐且元が「近く成立する」と状況を記した書状(龍谷大大宮図書館蔵、提供元:共同通信社)

 NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第47回「乱世の亡霊」では、大坂冬の陣ののち、大坂城の堀を埋めることで、徳川家と豊臣家の間に和睦が成立。しかし、豊臣方についた牢人たちはあくまでも戦を求めており……。今回の見どころについて、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

家康が「和睦の条件」でこだわったこと

 徳川家康がわずか2年で息子の秀忠に将軍の座を譲ったのは「これから将軍の座は徳川家で継いでいく」という姿勢をいち早く打ち出すためだった。家康が気を揉んだのが、豊臣秀吉の息子、豊臣秀頼の存在である。

 互いにけん制しながら平和的な共存を探っていたかにも見えたが、両者はいよいよ直接対決することになる。慶長19(1614)年11月19日、木津川口の戦いを緒戦にして、徳川軍と豊臣軍の間で「大坂冬の陣」が勃発した。

 前回のドラマにあったように、徳川軍は「石火矢」とよばれた大砲を揃えて本丸や天守閣への砲撃を行ったが、その一方で、和睦交渉を行っている。

 かつて秀吉が「誰もこの城は落とせない」と豪語しただけのことはあり、力攻めで押し切るには、大坂城はあまりに堅牢だった。そして豊臣側としても、先の見えない籠城戦に限界を感じていたのだろう。両者の間で和睦が成立する。

 和睦の条件としては、秀頼の身の安全と所領安堵を保障。さらに、もし大坂城を明け渡すのであれば、代わりの国を望み次第に進上すること、また淀殿を人質として江戸に送ることもせず、籠城している牢人衆の罪を問わない、とも約束した。

 その代わりに、大坂城の本丸、二の丸、三の丸の惣構(そうがまえ)・堀の埋め立て工事を実施することが、和睦の交換条件となった。