写真/西股 総生

(歴史ライター:西股 総生)

今の大坂城は徳川幕府が築き直した城

 1614年(慶長19)に起きた大坂冬の陣では、徳川軍は19万余もの大軍を動員して豊臣秀頼の籠もる大坂城を攻囲したものの、落城させることができなかった。そこで徳川家康は、いったん大坂方と停戦した上で、和睦の条件として城の堀を埋めて弱体化させ、翌年の再戦に持ち込んで豊臣家を滅ぼした(大坂夏の陣)。

 この大坂の陣について通説では、秀吉の築いた大坂城は天下の堅城だったので、徳川軍もさすがに攻めあぐんだ、と理解されている。けれども筆者は、長年にわたって城や戦国史を研究してきた立場から、この通説に大きな疑問を抱く。

 当時の大坂城は、本当に天下の堅城だったのだろうか?  という疑問だ。

 たしかに、現在われわれが目にする大坂城は、誰が見ても日本で一、二を争う堅城だ。けれども今見る大坂城は、豊臣氏が滅亡した後で徳川幕府が築き直した城である。それも、単に建物を新築して傷んだところを直したレベルの話ではない。

大坂城の大手門前から千貫櫓と石垣・堀を見る。この景観は徳川幕府によって造られたものだ

 既存の大坂城の上に数メートルもの盛土を施し、完全に埋め殺しにして、石垣からすべて新規に築いているのだ。したがって、大坂の陣以前の大坂城と、以後の(つまり今見る)大坂城とは、別物なのである。だから、城の専門家は前者を「豊臣大坂城」、後者を「徳川大坂城」と呼んで区別している。

 これで、筆者が疑問を呈した意味が、ご理解いただけただろう。1614年(慶長19)時点で、はたして豊臣大坂城は「天下の堅城」と評価できたのだろうか。

 秀吉が大坂城の築城を始めたのは1583年(天正11)で、その後も漸次工事が行われて1588年(同16)に完成している。つまり、大坂冬の陣が起きた時点で、すでに築城から四半世紀を経ていたわけだ。もちろん、御殿など日常的に使う施設は、必要に応じて改修や建て替えを行っていただろうが、防禦システムとして考えた場合はどうか。

 われわれは、大坂城や姫路城・熊本城のように壮麗な天守や高い石垣を備えた城を、近世城郭と呼んでいる。このタイプの城は、学術的には「織豊系近世城郭」と呼ぶのが正しい。織豊系(しょくほうけい)=織田・豊臣スタイルの城、というわけだ。

安土城の石垣

 織豊系近世城郭はもちろん突如として出現したわけではない。戦国時代の半ばから後半にかけて、少しずつ形を整えていったものだ。そして、文禄・慶長の役(1592~98)や関ヶ原合戦(1600)後に起こった築城ラッシュを契機として、築造技術を大きく進化させた。

 実際、大坂城では1594年(文禄3)に外郭が増設され、さらに数年後に外郭の強化が行われている。つまり秀吉自身、アップデートの必要性を感じていたわけだ。

 秀吉の死後、大坂城の西ノ丸に入った家康は、天守のような四重櫓を建てて権勢を誇ったといわれる。この西ノ丸天守は、『大坂夏の陣屏風』にも描かれており、大河ドラマ『どうする家康』でもCGで登場し、家康の野心・専横を表すものと見なされてきた。しかし、本当は旧式化した大坂城の防禦力をアップデートするためのものだったのではないか。

大坂城二ノ丸の石垣と堀。豊臣大坂城の西ノ丸はこの下に埋まっている

 また、豊臣大坂城は、現在見る徳川大坂城より石垣がかなり低かったことがわかっている。実際の景観は、秀長の居城だった大和郡山城に近いものだったのではないか。もちろん、それだって堅城であるが、関ヶ原合戦後に築かれた名古屋城や姫路城といった新世代城郭に比べたら、旧式感は否めなかったのではあるまいか。

秀長が築いた大和郡山城の石垣

 大坂冬の陣で、なぜ真田丸が築かれたのか? 徳川軍はなぜ大坂城を落とせなかったのか? 大坂冬・夏の陣をめぐる両軍の作戦や戦術を考える場合、大坂城は当時すでに「天下の堅城」ではなかった、という認識を前提にすべきであろう。

大坂城大手門の石狭間

⇒11月22日掲載の「豊臣秀吉の弟・秀長の居城・大和郡山城を徳川幕府が重要視した理由」をご参照下さい。