NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第46回「大坂の陣」では、豊臣家が再建した方広寺大仏殿の鐘に刻まれた文字が物議をかもす。家康はついに14年ぶりの大戦に踏み切り、豊臣家と直接対決することになるが……。今回の見どころについて、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
二度の災害に見舞われた「京の大仏」
どうにかして豊臣家から名実ともに権力を奪わなければならない。
関ヶ原の合戦に勝利して自ら征夷大将軍となり、さらに、将軍の地位を息子の秀忠に譲ってもなお、徳川家康の心は穏やかではなかったようだ。豊臣家を滅亡させるべく、家康が注目したのが「方広寺の鐘」だったという。
方広寺に大仏殿を建立しようと考えたのは、豊臣秀吉だ。秀吉が「奈良の大仏をも上回る規模の大仏と大仏殿を京の東山に建てよう」と計画したのが始まりである。
ところが、この大仏は二度の災害に見舞われることになる。一度目は文禄5(1596)年閏7月の大地震であり、木造の大仏がひび割れしてしまう。
二度目は慶長7(1602)年12月の失火である。ちょうど秀吉の死後、家康の勧めもあって、豊臣秀頼がひび割れた大仏を再建しようとした矢先のことだった。このときの火災では、大仏殿が焼け落ちたばかりか、大仏も溶けてしまっている。
それでも、秀頼は諦めることはなかった。巨額の財を投じて、大仏殿と大仏の両方の再建にとりかかり、慶長17(1612)年にほぼ再建することができた。