豊臣秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長)(春岳院所蔵、画像:Public domain,Wikimedia)
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NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・羽柴秀長(豊臣秀長)。活躍の転機となったのは、天正5年の但馬侵攻だった。近江長浜領では領主として限定的な活動にとどまっていた秀長は、ここで初めて総大将として独立行動をとり、羽柴軍の一方を率いる存在となる。近江長浜領での静かな領主活動から、実戦指揮官への転換点を、NHK大河ドラマの時代考証者が史料をもとに解説する。(JBpress編集部)

(黒田基樹、歴史学者)

※本稿は『羽柴秀長の生涯:秀吉を支えた「補佐役」の実像』(黒田基樹著、平凡社)より一部抜粋・再編集したものです。

※本文中において、以下の史料集については、略号で示している。(00は文書番号)
『羽柴秀長文書集』所収文書番号:秀長00
『豊臣秀吉文書集』所収文書番号:秀吉00

前編「「天下人の弟」はどう描かれる?大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目の羽柴秀長の謎多き出自」から続く

羽柴への改称と、近江長浜領主としての活動

 秀吉は、天正元年(1573)7月までに、浅井家領国の経略を遂げる直前の時期に、苗字を「木下」から「羽柴」に改称している(秀吉59)。

 その時点で苗字改称は秀吉だけで、秀長はまだ改称していない。

 秀長は、発給文書初見の同年8月の時点で、まだ木下苗字を称していた。翌2年の伊勢長島攻めにおいても、『信長公記』では木下苗字で記されている。ちなみに同書では、秀長は最後まで木下苗字で記され続けている。

 その秀長もその後に羽柴苗字に改称するが、その初見は天正3年11月のことである(秀長3)。

 以後は「羽柴小一郎長秀」と称している。このことから秀長は、同年になって秀吉から羽柴苗字を与えられたと考えられる。

 このことは秀長の立場が、秀吉を当主とする羽柴家の一員になったことを意味しよう。秀長はあくまでも信長直臣であったから、苗字改称には信長の承認があったことだろう。

 秀長は、あらためて羽柴家の一員になることで、同時に秀吉の代行者の役割を果たすことができるようになった、と考えられ、それは信長の意向でもあったのだろう。

 秀吉の長浜領統治は、天正元年12月から開始されていて、家臣に所領を与えている(秀吉74〜77)。

 おそらく秀長も同様に所領を与えられたことだろう。ただ長浜領での活動については、史料があまり残っていないため、十分なことはわからない。

 まず天正3年11月11日に、伊香郡古橋村(長浜市)の淡路・左京らに、同村の年貢高を250石に規定し、その年貢収納にあたる「政所」職に任命している(秀長3)。ここから古橋村は、秀長の所領であったことがわかる。

 次に同5年11月に、長浜城下の知善院に仏像を寄進している(秀長4)。ただし同文書は、木下苗字を記し、花押型も秀長のものとは異なっているので、そのままには信用できない。

 その他では、年代を特定できていないが、2月4日に浅井郡今西村(長浜市)に、同月20日に伊香郡黒田村に、ともに家数九十間に対して四十五間分を免除し、残る四十五間に人足役を賦課して、明日のうちに伊香郡小原(長浜市)までの出頭を命じている(秀長30〜31)。

 今西村と黒田村は離れた位置にあり、それらから人足役を徴発しているから、両村は秀長の所領であったと推定される。この時の人足役徴発が、何のためであったのかは判明しないが、このように秀長は所領から人足役を徴発していたことが知られる。

 秀長の長浜領での活動は、おおよそ以上のことが知られるにすぎない。それらからうかがえるのは、所領の領主としての動向だけといえるだろう。

 秀吉の長浜領支配において、秀長は秀吉を補佐する役割を担っていなかった、ということだろう。