豊臣兄弟活躍の転機となった「但馬侵攻」

 秀長の活躍が顕著になるのは、天正5年(1577)11月に開始された但馬侵攻からになる。

 そこで秀長は、総大将を務めた。

 ここから秀長は、秀吉の代行者として一軍の指揮官を務め始めるのであった。

 その但馬侵攻は、秀吉の中国地方経略にともなっておこなわれたものだった(以下、秀吉の動向は谷口克広『秀吉戦記』・柴裕之編『図説豊臣秀吉』を参照)。

 秀吉の中国地方経略は、天正5年10月から開始された。それは織田方になっていた播磨を確保し、さらに中国地方の大大名であった安芸毛利家から、その領国を経略するものであった。

 秀吉はそれまで、毛利家への取次を務めていて、同家と手切れになったため、その秀吉が毛利家攻めの総大将を務めることになったのだった。

 秀吉は播磨に進軍すると、織田方の御着小寺政職の家老小寺(のち黒田)孝高(1546〜1604)から、居城の姫路城(姫路市)の提供をうけ、同城を中国地方経略の拠点とした。

 そして11月、竜野城(たつの市)の赤松広秀、三木城(三木市)の別所長治らから人質をとり、毛利方になっていた国境地域の上月城(佐用町)を包囲し、これを攻略した。

 同時に竹中重治・小寺孝高に福原城(同前)を攻略させた。それと同時におこなわれたのが、秀長の但馬侵攻であった(以下の動向は宿南保『但馬の中世史』・岡村吉彦『織田VS毛利』を参照)。

 当時の但馬は、山名韶熙の領国で、山名家は織田家に従っていたが、家中のなかには毛利家に通じる勢力があった。

 秀長の侵攻は、毛利方を攻略して、但馬を織田方として確保することにあった。

 その行動は、播磨における秀吉本軍とは別行動によるものであり、ここに秀長は、秀吉の代行者として一軍の指揮官を務めるようになった。

 この時の行動について、『信長公記』には、朝来郡山口岩洲城(朝来市)を攻略し、勢いにのって山名家重臣の太田垣輝延の居城の竹田城(同前)を攻略し、同城を普請して、秀長が「城代」として在城した、とある。

天空の城とよばれる竹田城跡(写真:So_Takinoiri/イメージマート)

 11月9日には、朝来郡室尾寺(同前)に、秀吉から軍勢の濫妨狼藉の禁止を保証する禁制が出されているので(秀吉148)、秀長は11月初め頃から但馬に侵攻し、11月中には朝来郡の経略を遂げたとみられるだろう。

 ちなみにこの時の侵攻の状況について、『武功夜話』(新人物往来社)には詳しい記述があるものの、続いて養父郡を攻略したように記していて、事実とは異なる部分がみられているので、そのままには参照できないようである。

 そのため秀長が竹田城への在城を続けたのかどうかもはっきりしない。