秀長はその後、10月中旬頃に、但馬に進軍するという噂が立っている。

 敵方の吉川元春が摑んだ情報で、秀長に丹波衆が付属されて、因幡・伯耆境目地域まで進軍してくる、というものである。

 吉川元春は、秀長が出陣してきたら、自身もしくは嫡男元長が援軍として出陣することを、味方に伝えている。

 しかし実際には、秀長はその後、三木城攻めの秀吉本軍に合流したとみえ、10月22日の攻撃に参加している。

 そこで秀吉から与力として付属されていた樋口彦助が、別所長治弟の別所小八郎を討ち取る戦功をあげた。

 その戦功に対し、秀吉は「木下」100石を所領として与え、さらに秀長からも100石が与えられ、合計200石を与える証文を出している(秀吉179)。

 そして秀長も同日に、「四根」で100石を所領として与え、秀吉からも100石が与えられ、合計200石を与える証文を出している(秀長7)。

 これによって秀長がこの時に、三木城攻めに参加していたことが知られる。ところがその後、竹田城は毛利方に攻略されてしまったようである。

 天正7年7月から9月にかけて、山名家の要請をうけて吉川元春が但馬に進軍してくるが、その時に竹田城は毛利方として存在していたことが確認されている。

 秀吉が三木城を攻略するのは、天正8年1月のことだが、その直前の天正7年9月に、備前岡山城(岡山市)の宇喜多直家、伯耆羽衣石城(湯梨浜町)の南条元続が相次いで毛利方を離叛して、織田方に従属し、また織田家に謀叛していた摂津荒木村重の鎮圧もすすめられていた。

 宇喜多・南条の離叛によって吉川元春は但馬から引き上げ、荒木の勢力後退により、三木城は完全に孤立した。

 そうした状況をうけ、ついに攻略を遂げたのであった。

 秀長はこの時の三木城攻略にも参加していて、とくに天正8年1月11日に、別所長治の有力一族の別所山城守賀相の居城を攻略するはたらきをしている。

 同時に秀吉は、長治弟の別所彦進友之の居城を攻略しているから、いわば秀吉と秀長それぞれを大将とする軍勢で、別所家の有力一族の本拠を攻略したかたちになっている(秀吉211)。

 ここにも秀長が、羽柴軍の一方を指揮する存在であったことが知られる。

 これにより三木城は本丸を残すのみになり、別所長治は15日に秀吉に降伏を申し入れ、17日に切腹し、同城は開城した。

 またその15日には、竹田城も開城させている。具体的な状況は不明だが、秀吉方は三木城攻略にともなって但馬でも朝来郡まで回復したことが知られる。