天正6年2月に、播磨三木城の別所長治が織田方から離叛して毛利方になった。

別所長治(兵庫県立歴史博物館所蔵、画像:Public domain,Wikimedia)

 そのため秀吉は、3月下旬から同城を包囲した。

 その時、秀長も従軍している(「天正記」〈『太閤史料集』所収〉)。この時には竹田城から離れていたことになる。同城には再び太田垣輝延が復帰したように思われるので、それに返還してのことであろうか。

 この時、3月晦日に秀吉は、但馬出石郡の福成寺(豊岡市)に禁制を出している(秀吉168)。

 同所は山名家本拠の出石城(豊岡市)の近くに位置しているから、何らか秀吉方の軍勢が進軍する情勢にあったことがうかがわれる。

 翌月に、毛利方の山名家重臣垣屋豊続が毛利方の吉川家から援軍を得て、織田方の宵田城(豊岡市)を攻撃したというから、それに関わるものだろう。

『信長公記』には、その年の6月27日の時点で、秀長が竹田城に在城していたように記している。

 秀長は秀吉の三木城攻めに従軍していたのであったが、但馬情勢の悪化によって竹田城に帰還したのだろうか。

秀吉が書状に記した弟・秀長への信頼

 7月16日に秀吉は、但馬について、竹田城と生野銀山(朝来市)の間の山口で、牢人が蜂起し要害を構えたたため、通路が遮断されてしまったので、秀吉自身が進軍して、同要害を攻略したことを述べている(秀吉173)。

 このことからすると竹田城は秀吉方として維持されていたと理解できるので、この時には秀長は竹田城確保のため、帰還したように思われる。

 なおその直後の7月23日に、秀吉は小寺孝高に宛てた書状のなかで、「弟の小一郎同前に心安く思っている」と述べている(秀吉140・5895)。

 これは小寺孝高を秀長と同様に思っていることを伝えたものだが、孝高は秀吉から9歳も年少、秀長からも6歳も年少である。それを弟同様に思う、といわしめていることになる。

 それだけ秀吉が孝高を信頼していたことを示しているが、そのことは逆に、秀長が、秀吉から弟であることをもとに、何よりも信頼された存在であったことを、明確に示している。