嫡男・与一郎の存在から見えてきた事実
秀長の居城となった大和郡山城跡。秀長は天正13年(1585)に入城し、整備を進めた。(写真:ogurisu/イメージマート)
以後はもっぱら秀吉に従う立場になったと考えられる。
譜代家臣のいなかった秀吉にとって、軍事行動や領国統治を支えたのは、信長から配属された与力たちであった。
秀吉は領国大名になったことにともなって、やがてそれらの与力を直臣に転属させていくのであるが(杉原家次・浅長吉・宮部継潤・蜂須賀正勝など)、なかでも秀長は、秀吉の唯一の弟であったから、秀吉の代行者として活躍をみせていくようになる。
なおこの時期の秀長の行動で注目されるのは、すでに結婚し、嫡男が誕生していたとみられることである。
確かな事実として確認できているわけではないが、秀長には早世した嫡男与一郎が存在していて、天正10年(1582)に死去していた。
その時に与一郎という仮名を称しているから、すでに元服していたと考えられ、死去した年の元服としても、その時に15歳であったとみられ、そうすると生年は永禄11年(1568)と推定される。
母は、秀長の死去まで正妻として存在した慈雲院殿(生没年未詳)とみられる。結婚は与一郎誕生の2年前頃、永禄9年頃と推定される(前掲拙著)。
前年の永禄8年に、秀吉は浅野(のち木下)寧々(1549~1624、高台院)と結婚したと推定され、秀長の結婚はそれをうけるようにしておこなわれたと考えられる。
その時の結婚とすれば、秀長は27歳になっていた。
慈雲院殿の出自は判明していないが、秀長は信長の直臣の立場にあったこと、兄秀吉はすでに侍大将の立場にあったことからすると、織田家直臣の娘であったとみて間違いないだろう。
手掛かりも、父を賢松院殿(天正19年以前の死去)、母を養春院殿(文禄元年〈1592〉生存)、といったことくらいにすぎない(前掲拙著)。
今後、その出自が判明することを期待したい。
後編「秀吉はなぜ弟に軍を預けたのか―秀長が初めて一軍を率いた「但馬侵攻」の裏側」へ続く





