百姓少年から、信長の直臣への転身

 そうしたなかで、秀吉に誘われてであろう、秀長は織田信長に仕えて、秀吉の与力に配属されたと考えられる。

 秀吉の織田家での出世の過程について、当時の史料で検証することはできないが、それについては『明智軍記』の内容が事実に近いように思われる。

 永禄4年(1561)に侍身分に取り立てられて「足軽」(下級武士)になり、信長御馬廻衆木下雅楽助寄子に編成され、足軽給分を支給されるようになり、同5年に信長から所領30貫文(約300万円)を与えられて直臣に取り立てられ、寄親木下雅楽助から木下苗字を与えられて「木下藤吉郎」を称し、同6年に尾張犬山(犬山市)での戦功により所領100貫文(約1000万円)を与えられて、「侍大将」に取り立てられ、同7年正月には年頭儀礼で清須城の広間に着座するようになった、という(前掲拙著)。

 秀吉は当初、信長には小者(奉公人)として仕えていたから、その時点では苗字も実名も持っていなかったに違いない。

 仮名藤吉郎は称していた可能性はあろう。そして「足軽」に取り立てられたことにともなって、信長の命令により、寄親から苗字を与えられて木下苗字を称するようになったと考えられる。

 それと同時に実名「秀吉」を名乗ったと考えられる。

 苗字を持っていなかった武士が、寄親から苗字を与えられることは、戦国時代では普通のことであったから、この場合も不自然なことではない。

 こうして秀吉が、織田家の武将に成長していくなかで、秀長は秀吉の誘いをうけて、信長の家臣になったと考えられる。

 時期は判明しないが、秀吉が信長の直臣になった永禄5年のことか、侍大将になった同6年のことだろう。

 最初は秀吉から所領を与えられ、そのうえで信長からも所領を与えられ、その直臣になった、と考えられる。

 それにともなって秀長は、苗字を秀吉と同じ木下苗字を、実名は信長から「長」字を偏諱として与えられ、秀吉の「秀」字に冠して「長秀」を名乗った。

 秀長が信長から偏諱を与えられていることから、その立場は信長の直臣であったことは確実である。

 実際にも、天正2年(1574)7月に、信長の伊勢長島(桑名市)攻めで、信長御馬廻衆の浅井信広とともに先陣を務めていることから確認できる(『信長公記』〈角川ソフィア文庫〉)。