秀長の当時の史料での初見は、その1年前の天正元年8月のことになる。
8月16日に、近江伊香郡黒田郷(長浜市)に、百姓が還住(帰村)したならば、軍勢による濫妨狼藉(暴力的な掠奪)の禁止を保証し、違犯者がいたら連絡することを命じる証文を出している。
これが秀長の確認できる発給文書の初見で、「木下小一郎長秀」と署名している(秀長1)。
この時期、信長は近江浅井家領国を攻撃していて、最前線での大将を秀吉が務めていた。
その8日前の8月8日に、秀吉は浅井家家臣で山本山城(長浜市)に拠っていた阿閉貞征を降伏させていた。
黒田郷は浅井家領国のなかでも、最北部地域に位置していた。
このことから秀長は、秀吉による浅井家領国攻略において、与力として秀吉に配属されていて、領国北部の経略を担っていたことがうかがわれる。
信長は、9月1日に浅井家本拠の小谷城(長浜市)を攻略し、浅井家を滅亡させた。
戦後、秀吉は浅井家領国のうち江北三郡(伊香・浅井・坂田)を領国として与えられ、以後は独自の統治をおこなうとともに、本拠として新たに長浜城(長浜市)を構築した。
秀長は、それをうけて秀吉から長浜領で所領を与えられて、秀吉の領国統治を補佐することになったと思われる。
とはいえその翌年の天正2年には、先に触れたように、秀長は信長の直臣としてその軍事行動に従っているので、まだ信長直臣の立場は維持されていたと考えられる。
その立場そのものは、信長死去まで変わることはなかったとみられるが、信長の軍事行動に直接従うことは、その長島攻めを最後に、以後はみられなくなっている。