撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

わずか8年で全国を統一

 豊臣秀吉が死去したのは慶長3年(1598)の8月、関ヶ原の合戦が起きたのは同5年(1600)9月であるから、豊臣政権は秀吉の死後わずか2年で事実上、空中分解してしまったことになる。全国を統一し、二度にわたる朝鮮出兵を強行するほど絶大な力を誇った政権は、なぜ、かくもあっけなく解体してしまったのだろうか?

 その理由としてまず思い浮かぶのは、後継者(秀頼)が幼弱だったことである。秀吉が没したとき秀頼は数えで4歳の幼児にすぎないから、諸大名を統制してゆく力はない。ただ、歴史的に見るならば、鎌倉幕府も江戸幕府も、幼弱な後継者を擁して体制を維持できたことが何度もある。

 後継者が幼弱だったことは、たしかに政権解体の一つの大きな理由ではあるが、決定的要因とまではいい切れない。では、秀吉の死によって豊臣政権があっけなく解体した最大の要因は何だったのだろうか?

 この問題を考える上でポイントとなってくるのは、秀吉がきわめて短期間で全国統一を成しとげた事実だ。織田信長が本能寺に斃れたのが天正10年(1582)、秀吉が小田原の役に勝利して統一を達成したのが同18年(1590)だから、秀吉はわずか8年で全国を統一したことになる。

石垣山城から見た小田原城(左下・天守は後世のもの)。遠くに相模平野が見える

 いくら信長の遺したベースがあるとはいえ、これはやはり神速というしかない。しかも秀吉は、下賤の身からあれよあれよという間に、織田家の最有力部将まで登りつめているのである。彼が、たぐい稀な才能と幸運の持ち主だったことは間違いない。では、秀吉を天下人たらしめた才能とは、いったい何だったのだろう?

 まず、彼が非常によく気の回る、目端のきく人物だったことはまちがいない。ただ、それだけでは大した出世は望めない。なぜなら、当時の織田家は四面楚歌、多正面作戦のような状況が連続していたからだ。そのような状況下では、軍事的資質を持ち合わせていなければ武将として出世のしようがない。

山崎城本丸。秀吉は山崎合戦ののち天王山の山頂に築いた城を活動拠点とし、権力基盤を固めていった

 一般には、秀吉は兵糧攻めや水攻めのような城攻めが得意だったとか、自軍の兵の損失を抑えるような戦い方を好んだと評されることが多い。しかし、これは全く事実に反する俗説である。

 反証として挙げられる典型例が、小田原の役の緒戦となった山中城攻めだ。この戦いで秀吉は、子飼い武将たちの尻を叩き屍を踏み越えるような強襲を行わせて、一日で城を落としている(9月28日掲載「豊臣秀吉は戦国最強の防禦力を誇る山城・山中城をどのように攻略したのか?」参照)。

山中城西ノ丸の障子堀。北条攻めの緒戦となった山中城攻略戦で、秀吉軍は屍を踏み越えるような突撃を繰り返した

 また小田原城を囲んでからも、前田利家と上杉景勝に命じて八王子城を強襲させている。八王子城は峻険な山城であったから、強襲すれば兵の損失は避けられない。山中城も八王子城も、一気に落とせるなら味方の兵を損じてもかまわない、という判断なのだ。

八王子城の大堀切。八王子城は峻険な山城であったが、秀吉は前田利家・上杉景勝に強襲を命じた

 たしかに秀吉は、三木城や鳥取城、備中高松城では、兵糧攻め・水攻めを行っている。けれどもこれらは、織田信長の部将としての立場で行ったものだ。当時、秀吉は織田軍の中国方面軍司令官のように立場にあり、なけなしの兵力で戦線を維持する必要に迫られていた。封鎖ラインに張りつける兵力を節約するための戦術として、敵の城をバリケードや見張所などで完全包囲したが三木城や鳥取城の戦例なのである。

姫路城に残る秀吉時代の石垣。織田軍の「中国方面司令官」となった秀吉は、この城を拠点に作戦を進めていった

 備中高松城も同様だ。このときは、毛利軍の主力が出動してきたのに対して、信長が決戦を企図したために、信長の本隊が現着するまで備中高松城を生殺しで引っぱっておく必要が生じた。それゆえ水攻めにしているのであって、別に城を水没させたかったわけではない。

 秀吉は、兵糧攻めや水攻めを得意としていたのでも、兵の損失を抑える戦い方を好んだわけでもない。では、秀吉の軍事的資質とは、実際にはどのようなものだったのだろうか?(次稿につづく) 

 

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