伝統的学問の薫陶とその影響
西周の思想形成を理解する上で、その出発点である津和野藩での徹底した漢学教育を見過ごすことはできない。この伝統的学問の薫陶は、彼の強固な知的基礎を築くと同時に、後の西洋哲学受容のための重要な素地を形成した。
それは西の知的キャリアの揺るぎない原点であり、同時に、西が自らの意志で乗り越えるべき最初の壁でもあった。この初期教育こそが、西を単なる知識の受容者ではなく、批判的合理主義者へと変貌させる内的必然性を準備したのだ。
西周の知的転換点―朱子学から徂徠学へ
西周の思想形成における最初の、そして最も決定的な転換点は、嘉永元年(1848)、藩の官学であった朱子学から、より実証的な徂徠学へとその思想的立場を移したことであった。それは、西の「徂徠学に対する志向の述べた文」で確認できる。しかしこの転換は、単なる知的好奇心から生まれたものではない。
「徂徠学」を唱えた荻生徂徠
藩医の家に生まれた西は、当初、家業を継ぎ医者となることを望んでいた。それは西にとって「日用有益なもの」、すなわち実社会の役に立つ学問であった。しかし、藩命は彼に一代還俗して儒学者となることを命じた。
この個人的な志向と公的な命令との間の葛藤を解決する思想こそ、実学を重んじる徂徠学だったのだ。これは単なる学派の乗り換えではなく、西の世界観を根底から変えるパラダイムシフトであったのだ。