西周の生い立ち

 西周は、文政12年(1829)2月3日、石見国津和野藩の藩医である父・時義と母・カネの長男として誕生した。周の幼名は経太郎、号は寿専とした。名は時懋(ときしげ)、魚人(なひと)、魯人、成人後は修亮と改称している。幕府の公文書に周助と書かれていたので、これに従った。

西周の旧居(島根県津和野町)    世界の中心, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

 明治以降、周助を周に改めた。「沼津兵学校役々」(教職員名簿)には「頭取 西周」と記載された。号は鹿城(鹿足郡の城下町津和野の意)、周を訓読した天根、天寝舎、甘根斎などがある。早くからその才覚は示され、わずか4歳で祖父時雍(ときやす)から『孝経』を習い始め、6歳にして四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を学び終えるほどの早熟ぶりであった。

養老館での教育内容

養老館 消えゆくダック, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 天保11年(1840)、西周は12歳で藩校「養老館」に入学すると、彼の学問的基礎はさらに強固なものとなる。山口重山、山口慎斎より儒学の句読(素読)、儒学を森秀庵(周の父の弟)らに学び、この頃までに四書を終え、次いで五経(『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋』)を習得した。

 さらに、『近思録』(浅見絅斎[けいさい]編)、『蒙求』(唐の李瀚[りかん]撰)、『文選』(梁の蕭統撰)、左国史漢(『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』)を学修した。西は、儒学の経典から中国の歴史書、文学に至るまで、伝統的な教養の体系を徹底的に叩き込まれた。この膨大な古典籍の学習は、西の思想活動を支える、揺るぎない知的体力と論理的思考力を育んだと言えよう。

 その他、家にある正規の学習書以外の通俗書である歴史書や小説を乱読した。加えて、能・謡曲・狂言は友人(宇田半十郎・高山官之助・平尾錠太郎)らと実践したのだ。

 なお、弘化2年(1845)に初めて津和野亀井氏11代藩主亀井茲監(1825~85)に謁見し、中小姓(士分格、3人扶持15石以下)となり、時懋と改名した。