(文:菱木ヒスイ)
2021年にクーデターを起こしたミャンマー軍事政権は、今年2月10日に徴兵制の実施を宣言したが、対象者や実施時期に関する発表が二転三転し混乱を招いている。民主化時代に日本企業への就職を目指して日本語を学び始めた若者たちは、不条理な現実と折り合いをつけながらそれぞれの未来を選択している。
西暦1月1日は祝日か否か。十数年前まで、ミャンマーは1月1日を平日としていた。ミャンマー人にその理由を尋ねると「(旧宗主国の)イギリスに合わせたくないでしょう?」と気にも留めていないように言う。国を閉ざしていたミャンマーにとって、西暦の祝日などに生活を合わせずともなんら不自由がなかったのは事実だ。
2015年にアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が政権を握り、国際性重視が始まったころから1月1日は祝日に指定された。日本をはじめ各国の企業誘致を進めていた当時、1月1日は祝日である必要が明らかにあった。しかし今、再び1月1日は平日になっている。人々は「軍は民主派(NLD)の決めたことを、ことごとくなかったことにしたいんですよ」という。
ミャンマー人は祝日がころころ変わることなど日常茶飯事と笑い飛ばす。実際、徴兵制度という人の一生を左右するほどの重大事でさえ、猫の目のように内容変更が繰り返されている。
▽2024年2月10日に徴兵制の実施を発表。
▽2月20日に女性の徴兵対象外とする⇒現在は徴兵の対象としている。
▽特定技能・育成就労など就労目的の出国禁止令を発令⇒撤回⇒現在は男性にのみ就労目的の出国を禁止。
▽徴兵制は4月下旬からと発表⇒3月末に開始。
現在もいつ実施内容が変更されるかわからない状況だ。国軍メディアと独立系メディアの報道が入り混じり、さらにSNSの無責任情報や町中での噂話が混在している。その中に、それらの情報に振り回される個人の現実が存在する。
教え子たちの顔がみな土気色に
あるヤンゴンの日本語学校の教師が「まるで防空壕の中で震える人を見ているかと思った。戦争経験などないのに」と話してくれたことがある。2月10日、軍が徴兵制の実施を発表した日の話だ。
日本語教師は前日となんら変わらない朝を迎え、いつものように授業に向かったところ、教室の教え子たちがみな土気色をした顔で表情がないことに驚いたという。昨日と何が違うのか? 重い空気だけが教室によどんでいる。みな平静を装い受講しているものの、休憩時間にはひそひそ話が始まる。
異様な様子に驚いている日本語教師にスタッフが、徴兵制の発表があったのだと説明した。日付が変わった頃からSNSで情報が出回っており、そのスタッフも昨晩は一睡もできなかったという。一方、日本人である教師は、徴兵制がもたらす現実の重みをすぐには理解できなかった。
◎新潮社フォーサイトの関連記事
・ボランティア不足の能登被災地、ミャンマー人が「日本に恩返し」
・地球温暖化で危険になる地中海 「カリブ海に似てきた」という船長も
・逆視点シミュレーション「台湾有事」――中国軍から見た着上陸作戦の困難さについて