連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

奈良・平安時代、貴族の間では、歌のやりとりで恋心を通わせることが一般的だった(PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像)

 昭和40年世代の青春期、かつての男女の恋愛のきっかけは、学内での出会い、合コン、友人の紹介。就職してからは職場における社内恋愛や仕事の関係などが一般的であった。

 一方、さらなる能動的な出会いとしてはディスコでのナンパ、出会い系では「通称テレクラ(テレフォンクラブ)」が一世を風靡していた。

 それは、男性が入室料を支払えば、指定された個室で、女性から電話がかかってくるのをワクワクしながら待つというものだった。

 かつての結婚相談所では女性1人に対して男性はバス1台分の乗客数が押し寄せるほど、女性が男性を選び放題といった状況にあったが、現在もそうした状況に変わりはないようだ。

 昨今の米国のマッチングアプリの研究によれば、女性は1000人の男性を選り好みできる状況にあるとのこと。

 それは積極的な出会いを求めても、ほとんどの男性がふるい落とされるという厳しい状況を表している。

男女の乱交は当たり前の奈良・平安時代

 我が国は太古の昔より、男も女も性に対しては活発であった。

 奈良時代には春と秋の2期に、掛け歌による呼びかけの恋愛風俗「歌垣(うたがき)」が全国各地で催されていた。

 主に山頂、海浜、川、そして市など、境界性を帯びた地で執り行なわれた。

 それは特定の日時と場所に集った男女老若、有夫有婦、貴賤の別なく多数の人々が集まって一団となり、共同飲食しながら恋歌を詠み合い、舞い、戯れ、雑魚寝に夜を明かした男女の恋愛と交遊の宴である。

 歌垣は「かがひ」といい、それは「掛け合い」の義であり、語源は「歌掛き(懸き)」で言霊である歌の「懸け合い」に由来する。

 言霊信仰に基づき、歌で呪的の強い側が勝つと相手を支配し、歌い負けた側は相手に服従するものであった。

 歌垣は徐々に、言霊信仰の性格は薄れ始め、乱交を目的とした野遊びや未婚者の求婚行事となっていった。

 当時は歌で恋愛を語り合ったため、男女においては互いに求愛歌を掛け合われ、様々な情の歌が詠まれた。

 その謎を解く返歌の巧みな男が、理想的な男として選ばれたため、たとえ善良な男であったとしても、歌が巧みでなければ、美女の相手にされないことにもなりかねない。

『日本書紀』には武烈天皇と平群鮪。『古事記』では顕宗天皇と平群志毘が女性をめぐって大和国に存在した古代の市・海石榴市(つばいち)で歌をたたかわせた逸話が残っている。

『日本書紀』には、武烈天皇がまだ皇太子であった頃、物部麁鹿火の娘・影媛に求婚したところ「海柘榴市の巷でお待ちしておりますわ」との返事を受け、皇太子は躍り上がるように海柘榴市に出向くと、そこに居合わせた平群鮪と影媛をめぐって、歌の掛け合いとなった。

 だが、その時、太子は平群鮪と影媛が、妬ましくも既に契を結んでいることを知り、眉を曇らすのである。

 奈良時代末期に書かれた『万葉集』、奈良時代初期に編纂された『常陸国風土記』、『肥前国風土記』などから、「歌垣」の場では、独身者も既婚者も、己の立場や名分を忘れて、老若男女が集団で歌を交わした後、乱交、つまりフリーセックスの風習があったことを垣間見ることができる。

 それは性の悦びを謳歌する習俗であり、古代の乱婚の名残だとする説がある。

『万葉集』巻九には高橋虫麻呂が、歌垣で自身と妻が乱交に勤しもうと、その意気込みを詠んでいる。

「鷲の住む  筑波の山の  裳羽服津の  その津の上に  率(あども)ひて 未通女壮士(おとめおとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ刊歌(かがい)に」

(鷲が住む筑波の山の、裳羽服津(もはきつ)の津の上で、集まった若い男女が、嬉々として歌いながら、むやみやたらに声をかけあって踊る夜に)

「人妻に 吾(あ)も交はらむ 吾が妻に 人も言問(ことと)へ この山を  うしはく神の  昔より  禁めぬわざぞ  今日のみは  めぐしもな見そ  事もとがむな」

(今宵、誰に憚ることなく、私は他人の妻と肉の交わりに勤しもう。誰か私の妻にも交接して、目眩くような性的な愛情を与えてくだされ。ここでの乱交は、筑波の山の神のための昔からある神事。今日だけは、たとえ我妻、我が夫が他の異性と淫らな快楽から盲我の淵に堕ちようとも、咎め立てをせず黙認しようではないか)

 反歌の

「男神に 雲立ち上り しぐれ降り 濡れ通るとも 我れ帰らめや」

(男峰の上に雲が立ち上り、時雨が降り、ずぶ濡れになったとしても、帰らずに男女互いに素晴らしい結合感覚を堪能しようではありませんか)

 歌垣は、三・五・七などの音数律に従う固定的な旋律と、定型的な歌詞がある。

 歌い手は、そうしたルールを守りながら、即興で歌をつくる頭脳と、かつ異性の気を惹くという知識と知恵といった幅広い教養が求められた。

 その後、平安時代に流行した、歌人を左右2組に分け、詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う「歌合(うたあわせ)」。

 5・7・5の発句と7・7の脇句の,長短句を交互に複数人で連ねて詠んで一つの歌にしていく「連歌」に歌垣は影響を及ぼすことになる。

 近代まで農山漁村で行なわれてきた「盆踊」風俗も、元々は歌垣のような男女の情事の機会を提供する系統の乱交習俗で、土着庶民の胸躍る享楽行事として開催された。

 それは祭りの日は若い男女が中心となり踊り狂った後、独身者も既婚者も、己の立場や名分を越えた情事や乱交などの、性的行為が黙認される催しでもあった。