平安時代の男子性の手ほどき

 平安貴族の館には、何人もの女房が使えていた。

 貴族の身分が高ければ高いほど、それに比例して仕える女房は数多くなり、容姿かたちも見目麗しく、教養レベルも高い、ハイスペック女房たちが屋敷に集結することになる。

 皇室や貴族など特権階級の若君が一定の年齢に成熟すると、ハイスペック女子による性の手ほどきが待ち受ける。

 まずは数え5歳になる前、包皮を剥く亀頭、亀頭冠、および陰茎の鍛錬が始まる。

 男子陽根を玉茎といい、珍宝、珍根、鎮砲、刃帆、神宝、震砲、摩楽、摩裸、摩雷、真卵とも称す。

 作法とは、女の壷の中で玉茎を揺り震わせる歓喜のこと。

 行礼とは、心も肝も、煩悩により縛られていた自由を年中解き放った楽世、つまり快楽の絶頂である昇天した状態のことである。

 数え7歳。女房は、養育を常に施す。包皮を亀頭に被せ、また、引き下ろす、陰嚢の下より亀頭まで、両またのつけ根、下腹部より亀頭まで揉んでさし上げる。

 12歳になれば、お付きの女房たちが交互に若君の鍛錬を行う。

 勉めて、射精を留め、長時間に耐えることを繰り返す。

 各々の宮(膣)に、挿入する。

 この行法、射精したら止め、また、射精したら止めることを繰り返す。

 座位、本手、茶臼、側位、後側位、立位、倒逆位があるため、お付きの女房、数人が交代で奉仕を繰り返す。

 挿入後の深浅・強弱、遅速・緩急と波打ち、また、 上下に打ち震い、射精を促す。

 清少納言が執筆した随筆、『枕草子』に登場する一条天皇の正妻として人生の絶頂を迎えた中宮・藤原定子は、帝より3歳年上だった。

 当時の貴族の子息が結婚する際、最初、年上の女子があてがわれることが多かった。

 その理由は、性的な経験の少ない若君を導いてもらいたいという親たちの願いとによるものだろう。

 後に皇后・藤原定子は、期待通りに一条天皇の間に第一皇女・脩子内親王、第一皇子・敦康親王、第二皇女・媄子内親王と天皇の子供を3人出産している。

 中宮定子は2人目の第一皇子・敦康親王を出産してかららわずか2~3か月程で再妊娠する。

 妊娠の間、定子の体調は優れず、精神的な不安に苛まれることになる。次の3人目の出産で死を予感した定子は、遺詠を残している。

「よもすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひん涙の 色ぞゆかしき」

(夜通し契り合い、交じり合った2人の仲を、帝が忘れず、この世を去る私に、貴方が流してくれる涙を見て、私は胸を熱くするでしょう)

「煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ」

(私の身体は、煙や雲になりません。草の葉に浮かぶ露が、私と思い出してください)

 皇后藤原定子は第二皇女・媄子内親王を出産すると崩御。享年25歳。

 定子の訃報が一条天皇にも届いた時、帝は、

「皇后の宮、すでに頓逝すと。甚だ悲し」と泣き崩れた。

 定子の死から遅れること10年。一条天皇は31歳の若さで病に倒れ崩御。

辞世の句:「秋風の 露の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき」

(秋風の、前の露のような、儚い家に君を残して、私があの世に旅立つことは、胸が引き裂けるほど、心悲しいことです)

 この歌は実は既に先立った皇后・定子の遺歌「草葉の露」を意識した歌である。

 だが、藤原道長は、この歌の「君置きて」の「君」を自身の長女で皇后(中宮)彰子に宛てた歌で、帝が一人死に往く哀しさを詠んだと解釈したという。

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