連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

後に清和天皇の妃となる高子を背負って屋敷を抜け出し駆け落ちする在原業平。画:月岡芳年

 性行為は、寛いだ人間関係の中で繰り広げられる穏やかな悦びの会話である。

 長い結婚生活において、2人が愛し合い信頼し合っていれば、人生は満ち足りたものであろう。

 しかし、死が2人を分かつまで、いつも互いに満足した性生活を送り続けるのは相当難しい話であり、大変困難なことではないか。

 セックスの悩みを抱えきれなくなった男女間の、沈滞した惰性だけの性行為は、多くのカップルの愛情や、その関係に影響しがちである。

 そんな時に性のマンネリ化を脱するためには、パートナーを変えるとか、新たにエロティックな趣向に挑戦してみるのも、性の活性化の一つの手段と言えよう。

 健全な男性なら、身近な女性のすべてと空想の中で性行為をすることはノーマルなことである。

 また、もし若くて健康的な女性が全く誘惑されなければ、大急ぎで自身の短所をチェックする必要があるだろう。

 誘惑されない女性は重大な欠陥があるかもしれず、そうでなければ健康な男たちが放っておくはずはないのだ。

 性は本来、人間の根源に関わる問題であり、好色は人間の長所の一つである。

 仮に、もし「私は助平ではない」と主張する男性がいたとしたら、その人は正直ではないとみてよい。

 男性の場合、自分の前を歩く女性のヒップや脚に視線を向けるのは正常な証拠であり、階段を上っていく女性のお尻に視線を向けて、鄙猥な想像を巡らすことは、極めて自然なことと言えよう。

 女性にしても同様に、例えば勃起したペニスに触れてみたいのに、そんなはしたない行動をしてはいけないと腕を宙ぶらりんにさせている女性と、まだ勃起していない肉茎に触れて、それが力強く勃起する感覚を楽しみ、その逞しさに思わず唇を寄せてしまう女性と、果たしてどちらの女性がより素晴らしい性生活を送っているか、答えは明々白々である。

 セックスは平和な民主主義のシンボルである。

 世界を見回せば、強権的な国家や社会では、往々にしてエロティックな文化や行為が弾圧を受けている。

 強大な権力をもった人間は、自分の体験をエロス化しないで、まず擬神化するものである。

 強権政治が行なわれているか否かを知るには、その国のセックスの開放度を見れば一目瞭然といえよう。

 専制主義国家においては、その最大の被害者は、エロティックな文化や行為を愛する人たちであり、性行為を平和に愛するという心は、常日頃、強大な権力と戦っているのだ。