平安時代の結婚形態の変遷

「妻訪い」の初日、女性の住まいに男性は従者を引き連れて訪れる。

 ここで男性の火と女性の火と結合させる「火合わせの儀式」が催される。

 夜這いには女性側にも作法があった。

 女性は女房から、「男性の寝所に入ったら逆らわずに、思いのままにされること」とその心得が伝授される。

 平安時代の性交は、接吻や胸部の愛撫はなく、女陰の愛撫か、いきなり陰茎挿入が一般的だった。

 初夜に性交すると、男性は夜が明ける前に帰宅し、「後朝(きぬぎぬ)の文」という愛と感謝の意を表する手紙を女性に送る慣わしがあった。

 この夜這いで、互いの性格や身体の相性を確認し、3日連続で男性が女性のもとに通い続ければ、3日目朝に「露顕の儀」と男女そろって祝餅を食べる「三日夜餅の儀」が行なわれ婚姻が成立となった。

「三日夜の餅の儀」は、餅を食べることで男女の心と身が交わり、混ざり合い、子孫繁栄につながると考えられていた。

 夜這いは古代から行われていた習俗で、『万葉集』にも、

「他国(ひとくに)によばひに行きて大刀(たち)が緒もいまだ解かねばさ夜(よ)そ明けにける」

(遠くの土地の妻問い(女性を訪ね)に行って、腰に佩く太刀の紐を解いてもいないのに夜が明けてしまったよ)

 「緒も~解かねば」は「~もしていない」、つまり、わざわざ女性を訪ねたが、その甲斐もなくセックスをし損ねたことを嘆いた歌である。

 平安時代の初期の段階では、「妻訪い婚」という結婚形態が広く行われた。

 これは夫婦が別に暮らして男性が女性の家に通う婚姻形態で、男性が夜間に女性の家を訪ねるのが習わしだった。

 当時の貴族社会は、複数の女性が1人の男性と婚姻関係を築いていた。

 だが、男性が複数の女性と結婚の形態を築いているとはいえ、それぞれの女性の立ち位置や権利には違いがあり、明確な階級が設けられていた。

 正妻になるためには、その家系や父親の地位や財力といったこともが大きく影響する。

 もし、正妻となれば家庭内で最上位の地位を占めることになり、家の継承や財産を管理して取り仕切ることができた。

 一方、妾たちは正妻のような社会的な認知を得ることもなく、下位の立場に甘んじることになる。

 その後、時代が下ると、男性が女性の家に居住する「婿取婚」という婚姻形態が一般的となる。

 さらに平安時代後期になると、現在、見られるような結婚に類似した「嫁取婚」という婚姻形態が登場する。