「疑わしきは被告人の利益に」だが…

 死刑囚初の再審として注目された免田事件では、検察側が1982年11月の再審公判で「被告が真犯人である証明は十分である。遊ぶ金ほしさに4人を殺傷した残忍極まりない事件で許し難い。犯行後、34年を経た今も改悛の情がない」として、またも死刑を求刑しました。

 ただ、検察側は自説を補強する新証拠を出したわけではありません。そのため、弁護団は当時、「われわれはがく然とした。再審公判では格別の証拠も出さぬまま、再び死刑を求刑したことは断じて許されぬ」と検察側を批判。そのうえで「再審公判でわれわれが見たものは、免田君の無実の証しかなかった。それを検察官は無視した」と指弾しました。

 免田事件の再審無罪が確定した直後、読売新聞は1983年7月16日朝刊に掲載した社説で、冤罪事件には別件逮捕や自白の強要が必ずあり、それがパターン化していたことがわかると批判。「無理な捜査は(現在も)あとを絶ったわけではない。こうした暗黒を生み出した捜査当局と透徹した眼力を持たない裁判所に、ともども猛省を促さなければならない」として、「疑わしきは被告人の利益に」を貫くことのなかった検察や裁判所を真っ向から批判しました。

 4大冤罪事件を振り返ると、再審公判での死刑求刑はいずれの場合も検察側が「ほかに真犯人は考えられない」「証拠は十分に揃っている」という主張を貫いた結果でした。

【関連記事】
通称「袴田事件」を生み出した「日本型組織」の内在論理

 1984年3月に再審公判で求刑が行われた松山事件でも、検察側は「被告の犯行は自白や物証によって十分に証明されている。被告以外に犯人がいることを疑わせるものはない」と言及。これまでの捜査は適正だったとして、死刑を求める姿勢を変えませんでした。

 無罪が確実という流れのなかでも「死刑求刑」を崩さない理由は、いくつかありそうです。