斉彬と久光の本当の関係

島津久光

 結論から言えば、斉彬と久光の個人的関係は、お由良騒動を乗り越えて終始良好であった。 薩摩藩研究の必須史料である『玉里島津家史料』では、斉彬・久光間の書簡が少なからず掲載されている。斉彬が久光にのみ、諮問している政治的課題も存在しており、その多くは外交問題であった。

 斉彬書簡(久光宛、安政5年(1858)4月12日)によると、「外交問題について、京都(近衛家)から申し出が来ており、急ぎ相談をしたいので、それとなく本日登城して下さい。この件は、まだ家老にも内密なので、いつもと変わらぬ体でお出かけいただければ、昼過ぎにはお会いできるでしょう。誠に容易でない時節となりましたが、詳細は面談の上申し述べます」とある。

 この書簡から、両者の極めて緊密な関係が読み取れる。斉彬が重要な案件を家老抜きで、久光と2人だけで相談している事実が浮かび上がる。

 また、斉彬は安政5年5月の幕府への建言書を久光に見せ、意見を言うように要請している。その内容は、現状の武備では外国には敵わないとして、富国強兵を推し進め、早急に大砲・砲台・軍艦を整えるべきであるとして、「未来攘夷」を主張している。

 斉彬は久光の意見を聴取し、同意を得た上で幕府に提出している事実は看過できない。 そこには、斉彬の久光への絶大な信頼が見て取れよう。お互いが、「嘉永朋党事件」という過去を乗り越える器量を有し、また、本物同士がお互いの琴線に触れ合う感覚を持っていたと考える。幕末の最強兄弟と言っても、過言ではなかろう。

 次回は、薩摩藩主となった斉彬が主導した藩政を、民政・経済政策、海軍政略の各側面から詳らかにしてみたい。