弘化4年(1847)、島津斉彬は鹿児島から江戸に戻ると、老中阿部正弘から琉球派兵の虚偽報告・抜け荷を追及し、藩主斉興を隠居に追い込む計画を聞き及んだ。しかし、斉興の強制隠居は後々面倒となると考え躊躇し、賛同は出来なかった。 翌嘉永元年(1848)、阿部は方針を変えず斉興と調所広郷が出府すると、調所を呼び出し、虚偽報告等を追及した。これによって、阿部は斉興を隠居に追い込もうとしたため、その直後に責任を一身に負って、調所は斉興を守るために服毒自殺を図ったのだ。 調所が全責任を負って死亡したため、阿部の計画は失敗に帰した。しかも、責任追及を免れた斉興は、藩主の座に留まり実権を掌握し続けたため、斉彬の