照国神社にある島津斉彬像 写真=w.mart1964/イメージマート

(町田 明広:歴史学者)

斉興・斉彬の確執と久光の登場

 弘化4年(1847)、島津斉彬は鹿児島から江戸に戻ると、老中阿部正弘から琉球派兵の虚偽報告・抜け荷を追及し、藩主斉興を隠居に追い込む計画を聞き及んだ。しかし、斉興の強制隠居は後々面倒となると考え躊躇し、賛同は出来なかった。

 翌嘉永元年(1848)、阿部は方針を変えず斉興と調所広郷が出府すると、調所を呼び出し、虚偽報告等を追及した。これによって、阿部は斉興を隠居に追い込もうとしたため、その直後に責任を一身に負って、調所は斉興を守るために服毒自殺を図ったのだ。

調所広郷

 調所が全責任を負って死亡したため、阿部の計画は失敗に帰した。しかも、責任追及を免れた斉興は、藩主の座に留まり実権を掌握し続けたため、斉彬の藩主襲封は俄然遠のいたかに見えた。

 弘化4年、斉興は斉彬の異母弟久光を名代に任命した。しかも、翌嘉永元年には、久光は家老座に出席し、城代家老島津豊後の上座で藩政に従事し始めたのだ。これは、斉興が後継藩主として久光を考え、既成事実化を図ったことに他ならない。

 これに対し、斉彬の藩主就任を望む藩士は、斉興が斉彬の世子廃嫡および久光の藩主就任を画策していると恐れ、久光の生母お由良の方が策謀としたのではと疑った。すなわち、お由良の方が、斉彬とその子供たちを呪詛していると喧伝した。