(町田 明広:歴史学者)
斉彬の藩主就任と民政のモットー
嘉永4年(1851)2月2日、島津斉彬は正式に薩摩藩主・薩摩守を拝命し、それから約7年半、薩摩藩を統括した。3月9日、江戸を出発して、5月8日に藩主として鹿児島城に入城した。これは、世子時代の天保6年(1835)と弘化3年(1846)に続く3度目の帰国であったが、藩主として初入部であった。
斉彬の在国は、翌嘉永5年(1852)8月までの約1年4ケ月であった。この間に、寺社参詣、砲術調棟・諸武芸の実演観覧、伊集院(日置市)・加世田(南さつま市)・坊津(同)・山川(指宿市)・指宿など西目(薩摩半島)の巡見など、多忙な日々を過ごした。
次の帰国は、嘉永6年(1853)6月から安改元年(1854)1月までの約7ケ月間であった。その時は、桜島・垂水(垂水市)・根占(南大隅町)・佐多(同)・志布志(志布志市)・都城(宮崎県都城市)・高岡(宮崎市)・小林(宮崎県小林市)・霧島(霧島市)・国分(同)など、東目(大隅・日向方面)の巡見に費やした。
さて、斉彬の座右の銘は「民富めば君富む」(領民(国民)が豊かになれば、藩主も豊かになる)であった。領民の豊かな生活とその安全を保障するのが、藩(国)の存在意義の基本であると考えたのだ。藩(国)を支えているのは、領民(国民)であるとの認識がうかがえよう。