ペリー来航を画期とした海防強化

1853年7月14日、ペリー提督一行初上陸の図

 嘉永6年6月17日、斉彬は江戸から鹿児島に向かう途中、八代でペリー来航(6月3日)を伝聞した。22日に鹿児島に帰着した斉彬は、老中阿部正弘と打ち合わせ済みである、米国使節来航時に水戸斉昭を海防参与にすることに関し、尾張藩主徳川慶勝や越前藩主松平慶永(春嶽)へ尽力を要請した。

徳川斉昭

 反斉昭と言われた将軍家慶の急逝(6月22日)が追い風となり、7月3日に13代将軍家定から、斉昭は海防参与を拝命した。9月15日、斉彬と斉昭の念願であった大船(軍船)製造が解禁された。11月6日、斉彬(在鹿児島)は江戸藩邸に対し、大船・蒸気船合わせて15艘の建造を幕府へ申請することを命令し、12月20日に許可を得た。

 翌安政元年1月13日、阿部老中から大船2、3隻を幕府が買い上げたいとの打診があり、また、幕府との大船事業を立ち上げ、桜島・垂水に造船所を建設し、本格的に大船の建造を開始したのだ。斉彬は幕府用に帆船の昇平丸・大元丸・鳳瑞丸を建造し、藩船の帆船・万年丸、承天丸、蒸気船の雲行丸を完成させた。

 嘉永6年11月6日、大船建造の幕府への申請時、外国船と区別するため、予め用意した「日の丸」旗を日本国の総船印とする申請をした。幕府内には異論があったものの、斉昭の強力な推薦があったことから、翌安政元年7月9日、幕府は「日の丸」を日本国総船印に制定したのだ。ちなみに、明治政府は明治3年(1870年)1月27日、商船規則制定を制定し、「日の丸」は商船の国旗となり、これ以降、明文化されないまま日本の国旗となって現在に至っている。

 ちなみに、嘉永3年4月、当時の藩主島津斉興は天保山・州崎の2砲台の築造を手始めに、串木野・知林島・垂水・内の浦に、翌4年1月に桜島の袴腰、三月出水・阿久根に台場(砲台)を建造した。斉彬もその事業を継承し、同6年3月に洲崎の砲台改築、今和泉に砲台着工、7月に祇園州砲台が完成した。さらに、下町新波戸に砲台を着工し、10月に江戸田町藩邸にも砲台を建造した。そして、安政元年8月には、下町新波戸砲台が完成するなど、斉彬は矢継ぎ早に海防施策を実行したのだ。

 次回は、斉彬による集成館事業の実態や将軍継嗣問題と薩摩藩・斉彬との関わりについて、その真相に迫っていこう。