「打ち出の小槌」と目の色を変えた政治家

 この方策には、当初さまざまものが検討され、東海道本線の隣に新たな線路を、同じ在来線の規格で敷設する「貼り付け線増」方式も有力な案となっていた。そんな中、当時の国鉄総裁を務めていた十河信二が、広軌、すなわちレール幅が国鉄在来線に比べて広い1435mmという国際的に標準となっている軌間を採用して、高速運転が可能な別線を作ることを強力に推進した。

第4代国鉄総裁として東海道新幹線を実現させた十河信二(写真:近現代PL/アフロ)

 十河が第4代国鉄総裁に就任したのは1955(昭和30)年5月15日のこと。このとき71歳という高齢で、「博物館に保存されていた機関車が出てきた」と揶揄する向きもあったというが、十河は就任前に当時の鳩山一郎首相と会談し、その場で東海道に広軌の新線、すなわち新幹線を建設したいという希望を述べている。

 この時点で十河の腹は決まっていたのである。そして、東海道新幹線は、着工から5年半という短い工期で見事に完成し、圧倒的な輸送力によって、鉄道は斜陽産業という当時の世界的な評価を一瞬のうちに覆してみせたのだった。

 開業後、新幹線が大きな成功を収めると、これを「金の成る木」「打ち出の小槌」と目する人間が数多く現れるようになった。特に敏感に反応したのが政治家だった。