(柳原 三佳・ノンフィクション作家)
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、海外からなかなか日本に戻れなかった方、また、その逆の方も大勢おられたことでしょう。
最近になって各国がようやく制限を緩和しはじめ、7月3日からは日本航空が「成田-シンガポール線」の旅客定期便の運航を再開しました。しかし、羽田発着便については、7月中も全便運休が決まっているそうです。
国際線の完全復旧にはまだまだ時間がかかりそうですね。
さて、長い歴史の中には、感染症だけでなく、戦争、紛争、漂流など、さまざまな理由で外国に取り残され、遠い異国の地でひっそりと生きざるを得なかった人が少なくありませんでした。
『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)の中には、そんな数奇な運命を背負い、望郷の念を募らせながらも、シンガポールで49年の人生を終えたひとりの日本人が登場します。
ジョン・マシュー・オトソン・・・。
名前だけを見れば “異国人”ですが、本名は「山本音吉(おときち)」というれっきとした日本人です。
シンガポールで遭遇した「謎の日本人」
「オトソン」という名がついたのは、「音さん(オトサン)」という日本人同士の呼び名が、そう聞こえたからだと言われています。
実は、「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」は、1860年に幕府が派遣した「万延元年遣米使節」に続き、2年後には福沢諭吉らと共に、「文久遣欧使節」にも参加していました。その途中に寄港したシンガポールで、英語を自在に操る、この「謎の日本人」と遭遇していたのです。
音吉は数名の使節を、シンガポールの中心街にある自宅に招待し、諸外国の現状を懸命に伝えました。
日本を離れ、すでに30年という歳月が流れていました。しかし、体の中を流れるのは日本人の血です。日本にだけは決して大国の属国になってほしくない・・・。その強い危機感を、日本の外交の中心にいる彼らに伝えておきたい、そんな強い信念があったのでしょう。
とはいえ、鎖国中だった幕末、なぜシンガポールに日本人が住み着いていたのでしょうか・・・。
今回は、音吉という男の人生を振り返ってみたいと思います。