(乃至 政彦:歴史家)
ついに山内上杉の名跡と関東管領を継いだ上杉謙信。歴史上、彼の絶頂期といわれるが、実際は諸士に対する気遣いでそれどころではなかったようである。謙信は、関白・近衛前嗣を「摂家将軍」に推戴し、鎌倉を関東の首都に据え直すことで、古河公方体制を覆すつもりでいた。この越山はある種の下克上でもあったのだ。(JBpress)
畿内管領になれなかった関東管領
永禄4年(1561)潤3月、長尾景虎は、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、山内上杉氏の名跡と、関東管領を継いで、その名乗りを上杉政虎(以後、謙信と記す)に改めた。
多くの人は、これをかれの誇らしい絶頂期と評価する。だが、実態としては逆だっただろう。同時代の史料を見る限り、謙信は諸士に対する気遣いで、とてもそれどころではなかったらしい。誇りや傲りよりも、緊張と遠慮が先立っているようなのだ。
それもそのはず。当初の目的は、東国の兵権を握ることにあった。その先にあるのは言うまでもなく上洛だ。すると関東管領への就任は絶対条件ではなかったはずだ。
一年前、幕府奉公衆の安見宗房は謙信に対し、在京時に「官領(管領)」に内定したことはめでたいと祝辞を述べている(永禄3年[1559]3月5日付書状)。宗房にとって管領といえば、関東ではなく畿内の管領である。それに越後は「室町殿御分国(京都将軍の勢力圏)」であり、「鎌倉殿御分国(関東公方の勢力圏)」ではなかった。当時の常識から見ると、越後在住の大名が関東管領になれるわけがない。謙信は「関東管領・上杉政虎」ではなく、「畿内管領・長尾景虎」になる予定だったのだ。
関東に越山した謙信は、関白・近衛前嗣を「摂家将軍」に推戴し、鎌倉を関東の首都に据え直すことで、古河公方体制を覆すつもりでいた。この旧体制に振り回される関東諸士も多かった。関東の秩序を一新させるつもりでいたのである。この越山はある種の下克上でもあった。
謙信が構想していた新体制
謙信が鎌倉に入る直前、鶴岡八幡宮に捧げた願文に、「関八州を掌握し静謐にしたならば、武蔵・相模から寄付を集めて、関東諸士みんなを鎌倉に在住させ、昔の通り当社を作り直します(東八州掌握静謐之上、於武・相之間 問一所奉寄附属、東国之諸士悉在鎌倉之上、当社如元造畢)」ということが述べられている。戦国時代以前は、関東の首都である鎌倉に公方があり、多くの侍たちが近侍していた。謙信はこの体制を復興させると宣言していたのだ(鶴岡八幡宮寺に捧げられた永禄4年[1561]2月27日付長尾景虎願文)。
当時あった古河公方は、鎌倉公方が戦乱を逃れて古河に移住したことから生まれたものである。ここで謙信は、復古趣味に浸っているわけではない。むしろわかりやすい仕組みを新たに提示しなおして、近衛前嗣を公方として推戴する方便としたのである。その後、自らは前嗣の補佐役として鎌倉在住の諸士に号令をかけ、京都へ行軍するつもりでいたのだ。
この構想は、北条氏康が奉じる古河公方を引き摺り下ろすまではよくできていた。だが、ある人物の野心が予想外に大きくて難航することになる。その人物とは、多数派工作に奔走した下総の簗田晴助である。
晴助は古河公方の宿老だ。反北条派の筆頭株として、今の古河公方・足利義氏に仕えながら、たびたび逆心を起こしていた。かつて義氏は氏康と組み、前の公方の長男(足利藤氏)を廃嫡させて、今日の地位を得たものである。しかも前公方の長男というのは、晴助の甥であった。そして義氏は氏康の甥であった。晴助はこれが理由で、氏康と義氏を憎んでいたのだ。
もっとも晴助には、この古河公方体制そのものを否定する意思まではなかった。元どおり甥の藤氏を公方に就任させたいと考えていたのだ。
諸士にすれば、公方はすでに北条政権の傀儡と化して久しい。もはや抜け殻も同然で、立て直す価値すらないと思う者もいただろう。お飾りとして上にいたら簡単には逆らえない、
義氏を居城から追い出し、越後軍の鎌倉入りが現実味を帯びてくるころ、晴助が謙信の構想に難色を示した。「自分の甥を公方にさせたい」と唱えて譲らなかったのである。