お台場の風景(写真:Koutaro Makioka/a.collectionRF/アマナイメージズ/共同通信イメージズ)
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 クリスマスシーズンが到来し、全国各地できらびやかなイルミネーションが輝きを放っています。中でも東京港区のお台場では、東京湾の夜景とレインボーブリッジを背景にした「お台場イルミネーション“YAKEI”」が冬季限定でバージョンアップ。海をイメージした「青」を取り入れ、さらに彩りを増しているようです。

 フジテレビの社屋が移転されてから四半世紀以上の歳月が流れ、大型商業施設やテーマパークが次々と誕生したお台場は、今や若者に大人気のスポットとなっています。

大砲の砲台があったから「お台場」

 さて、そんな「お台場」ですが、この地が170年前の江戸時代からこの名称で呼ばれているということは、現代の若者にはあまり知られていないのではないでしょうか。

「台場」とは、そもそも大砲を設置する「砲台」が備えられた場所のこと。それが幕府(将軍直轄)によって築造されたものだったため、当時は敬意をこめて「御」がつけられ、「御台場(おだいば)」と呼ばれるようになったのです。

 実は、レインボーブリッジの下に今も残る台場の築造には、本連載の主人公である「開成をつくった男 佐野鼎(かなえ)」と親交の深かった優秀なサムライたちが、複数かかわっていました。彼らは品川沖に台場を完成させた後、万延元年遣米使節(1860年)や文久遣欧使節(1861~62年)の一員として、世界各国を訪れていたのです。

レインボーブリッジの真下に位置する第三台場(筆者撮影)

 当時はクレーンなどの重機はもちろん、土砂や石を運ぶ作業船も、ダンプもない時代。工事はすべて「人力」で行われました。それでも、1年半足らずの間に、海の上に複数の砲台を竣工させたというのですから、その技術力の高さにはただただ驚くばかりです。いったいどうやって海中に基礎を打ち、石垣を積み、あのような大工事を成し遂げたのでしょうか。

 そこで今回は、お台場研究で著名な品川区立品川歴史館の冨川武史学芸員の解説をもとに、まさに「幕末の巨大プロジェクト」ともいえる品川御台場築造の経緯と、この大事業にかかわった幕末の頭脳集団について振り返ってみたいと思います。

11月1日、「一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会」は、設立15周年を記念し、冨川武史氏による講演『品川の海に御台場ができるまで~普請に関わった遣米使節団員たちを中心に~』を開催した(筆者撮影)